読書メモ:木田元「哲学と反哲学」(1985年)①

 太平洋戦争で日本の敗色が濃厚になってきた頃、田辺元は現実に対する自らの哲学の行き詰まりを痛感し、最終的には懺悔道という独自の哲学を構築するに至った。懺悔道は従来の西洋哲学同様、絶対知への到達を永遠の目標としつつも、従来の哲学とは質を異にしているという意味で「哲学ならぬ哲学」とも表現された。
 この表現を見て、「後期のメルロ=ポンティが提唱した反哲学と比較することで、懺悔道の独自性が浮き彫りになるのではないか」というアイデアを思い付いた人も少なからずいるのではないかという気はする。今回読んだ木田元の論文「哲学と反哲学」(1985年)はそのアイデアを具現化するための手がかりの1つになり得るものだと思われる。この論文は1980年代の日本の哲学を考える上でも重要な1本だが*1、今回はその点を脇に置く。
 この論文はその後、木田の論文集『哲学と反哲学』(1990年)に収録され、同書は1996年に岩波現代ライブラリーから、2004年に岩波現代文庫から再版された。今回参照したのは岩波現代文庫のテクストである。

「哲学と反哲学」

はじめに―<反哲学>としての現代哲学(2-5頁)

 現代の哲学者の中には自分の思想的営為を<哲学>という名で呼ぼうとしない者がいる。ハイデガーメルロ=ポンティは哲学の歴史性・特殊性に注目した。
「<哲学>とは<西洋>と呼ばれる文化圏の、それも特定の歴史的時代に固有なある特殊な知の様式を目指す歴史的概念だと言って良い」(4)
<哲学>という特殊な知が近代ヨーロッパ、ひいては現代の巨大な技術文明の形成原理となった。近代や技術文明を批判しようとする哲学者が自らの思想的営為を<反哲学>と称するのは理解できるが、彼らは<哲学>の本質をどのように理解し、それに対してどのような<反哲学>を打ち出したのか。
これを詳細に検討することは、西洋とは全く異なる思想的伝統を持つ我々が<哲学する>ことの意味を考えるのに欠かせない。

第1節:哲学以前の思索と哲学(5-14頁)

ハイデガーの講演「哲学―それは何であるか」(1955年)に見える哲学観
・フィロソフィアとしての哲学はギリシア精神の実存であり、西洋=ヨーロッパの歴史の最も内的な根本動向である。それはソフィストたちによって用意され、ソクラテスプラトンが推し進め、アリストテレスによって定式化(「存在者とは何か」)されたものである。その後の2千年間、フィロソフィアは多様に変化したが、その本質はアリストテレスからニーチェに至るまで変わることがなかった。
ハイデガー自身が「この<哲学>の解体を企てている以上、まだ到来してはいないにしても、その下限もあるということになろう」(8)


ヘラクレイトスパルメニデスの思索はフィロソフィアではない。両名は哲学者よりも偉大な思索者であり、その思索は別次元のものである。
「存在という視野のうちに、すべてのものが存在者として現われ出て、いわば一つに集められているということ、(中略)、この事態こそが古い時代のギリシア人にとっては何よりも<驚くべきこと>であった」(12-13)
「早期のギリシア人は、この事態に驚きつつ、それをそのままに受け容れ、おのれ自身をもその存在の統一のうちに、いわばそのロゴスに言い応じ、随順しつつ包みこまれてあろうとした」(13)

ソクラテスプラトンアリストテレスは存在者が存在しているという驚きを強調しようとして、存在者の統一を可能にしているものは<何であるか>と問うた。しかし、ハイデガーに即せば、ロゴスに随順して生きることとロゴスを問うことは質を異にするものである。<何であるか>と問うとき、存在の統一は崩れ、別の次元の思索がフィロソフィアへと転じた。

<それは何であるか>という問い方自体がギリシア的、西洋=ヨーロッパ的、<哲学的>なものである。このように問う時点で、既に存在へのある種の態度決定がなされている。
<存在とは何であるか>と問うとき、そこでいう存在は<本質存在>のみを意味する。

*1:論文「哲学と反哲学」は木田が編集に携わった『新岩波講座 哲学』の第1巻「いま哲学とは」に収録されたものである。第1巻には編集委員全員が寄稿しており、哲学とはなにか、そして、哲学に目下どのように取り組んでいるのかをそれぞれの立場から論じている。坂部恵「かたりとしじま」や中村雄二郎「知の通底と活性化」、大森荘蔵「過去の制作」といった重要論考が並んでおり、これらが同時代に思索されたことの意味を考えるのは面白い作業のように思える

感想:『スタートレック:ピカード』シーズン2第5話「Qの陰謀」(ネタバレあり)

第4話

ストーリーの概略

 ピカードはついにウォッチャー(タリン)と接触することに成功したが、その風貌がラリスそっくりであることに当惑した。そんなピカードをよそに、タリンは自らの使命について話し始める。タリンは歴史を構成するタペストリーの中でも最も重要な1本の糸を見守り続けるという使命を担っており、その「糸」とは、ピカードの先祖でもあるルネ・ピカードであった。ルネは若い頃からずば抜けて優秀で、独学で宇宙飛行士への道を切り開き、エウロパ計画という惑星探査計画に参加することが決まっていた。
 ところが、ルネはプレッシャーに苦しんでおり、飛行士の座を辞退すると言い出しかねない状態にあった。そこに付け込んだのがQであった。Qはセラピストに成りすまし、ルネを計画から離脱させようとしていたのである。ピカードはタリンの協力を取り付け、Qの企てを妨害すべく行動を開始した。
 その頃、自らの衰えに気がついたQは別の手段を取らざるを得なくなっていた。Qが目を付けたのは遺伝子研究者のアダム・スン博士であった。不治の遺伝性難病を患う娘(コレー)を救うべく、博士は倫理規定をも踏み越えて研究を進めていたが、それ故に学界から追放されるという事態に陥っていた。Qはコレーの治療法と引き換えに、自らの企てに協力するよう博士に迫ったのである。

『ファースト・コンタクト』の語り直し?

 シーズン2が2024年の世界を舞台にした作品になると報じられたとき、世のトレッキーベル暴動と関係したストーリーになると予想したはずである(DS9「2024年暴動の夜」参照)。しかし、その予想は良くも悪くも裏切られることになった。ベル暴動が発生したのは同年9月のサンフランシスコだが、ピカードたちがやって来たのは4月のロサンゼルスだからである。おそらく、リオスが不法移民として取り締まられるくだりも、ミスリードを誘うために挿入されたのではないか。
 第5話を見れば明らかなように、製作陣の狙いは『ファースト・コンタクト』を踏まえつつ、新たな物語を展開することにあったということになる。しかも、本エピソードの監督は第8作と同じジョナサン・フレイクスである。ピカード一行が強敵(ボーグクイーン/Q)と戦いつつも、人類史に残る偉業(人類史上初の光速度突破/エウロパ計画)の達成を見届けるという構図は共通している。
 ただし、1つだけ決定的な違いがある。それはボーグクイーンの立ち位置である。劇場版第8作において、クイーンは最凶の敵として君臨していたが、今作では敵とも味方とも言い難い絶妙なポジションを獲得している。シーズン2の成否はこの違いを上手くいかせるか否かにかかっていると言っても過言ではない。

ボーグクイーンとジュラティ博士

 そうはいっても、ボーグクイーンの変質は賛否が割れることだと思う。今作のクイーンは過去作のクイーンとあまりにも違い過ぎる。例えば、クイーンはピカード(ロキュータス)やセブンに対するただならぬ執着を見せたわけだが、あれはどこに行ったのだろうか。今作においても、クイーンが両名を意識している描写はあるが、再度同化してやろうという意思をほとんど感じさせない。
 その代わりとでも言うべきか、今作のクイーンはジュラティ博士が抱える疎外感や孤独に目を付けた。しかも、クイーンは博士に自分と似たものを感じ取っているようである。集合体から切り離されたのだから、クイーンもまた内心孤独を感じていたとしても不思議はない。ただ、彼女はこれまでシリーズの絶対悪として君臨してきた。私は今作のクイーンを好ましく思っているが、トレッキーの中には、人間味あるクイーンなぞ見たくなかったと思う人もいそうではある。
 さらに言えば、ジュラティ博士がクイーンにあっさり付け込まれたのも不可解ではある。それだけ博士の孤独が深いということなのかもしれないが、シーズン1で博士はジャット・バッシュに利用されて悲劇を引き起こした。そのことを思えば、博士は自分を利用しようとしてくる人間にもっと警戒して然るべき―しかも、クイーンはジャット・バッシュ以上に露骨である―なのだが、どうにもディフェンスが甘い*1。はっきり言って、同じ過ちを繰り返そうとする博士には苛立ちすら覚える。脚本家がもっとじっくりと2人の攻防を描いていれば、こうはならなかったのに。

不自然なストーリー展開

 上述した点に加え、本エピソードには不自然なストーリー展開が目につく。まず、時間の転換点がピカードの先祖、ルネ・ピカードだったというのがそもそも出来過ぎである。『ファースト・コンタクト』のゼフラム・コクレーンとは違い、これまでのシリーズでルネという人物が偉業を成し遂げたという話は一切出てきていない。ピカードの先祖に宇宙と深く関わった人物がいたなら、TNGのエピソードのどこかで言及されて然るべきである。熱心なトレッキーほど、ルネの唐突な登場に困惑させられたのではないか。
 また、タリンがピカードをすぐに信用したのも不可解である。視聴者である我々はピカードが味方であると確信をもって判断できるわけだが、タリンにはそこまでの材料がないはずである。ピカードがQと同類である可能性も捨てきれない。しかも、ピカードの仲間はエイリアン(ボーグクイーン)を「殺害」し、警察官を負傷させている。「何か事情があったんだよ」というピカードの言葉だけで何故納得してしまうのか。

 ストーリー展開が多少強引でも、スピードや勢いで違和感を覚えさせないことは可能だが、『スタートレック:ピカード』はシリーズの中でもゆったりとしたテンポの作品である。脚本家はそのことを忘れていたのだろうかなどと言いたくもなる(もしかすると、ピカードというキャラクターが持つパワーで何とかなると楽観視したのかもしれん)。 

卑劣さを増すQ

 指を鳴らすだけで全てを思い通りに操れたQだが、最早彼にはそれだけの力が残されていないようである。それでも時間改変を成し遂げたいQは、あろうことか娘を思う父親の気持ちに付け込むという卑劣極まりない所業に走った。Qに息子がいることを思えば、その卑劣さは一層際立ってくる。彼は親が子を思う気持ちを理解できずにそうしたのではなく、知ってて敢えてそうしたということになるからである。
 スン博士と初めて会った時の口上からして、その独特な美学は健在なようだが、それもいつまで保てるか怪しい。余裕を失い、焦燥感にかられるQがどこまで道を踏み外してしまうのか。かつてのユーモラスな姿を愛していた者にとっては、続きを見るのが楽しみでもあり、悲しくもある。

 

*1:ピカードはそんな博士をクイーンと2人きりにするというミスを犯した。ボーグの恐ろしさは誰よりも知っているはずなのに、何故そんな決断を下したのか。この軽率さはピカードらしくない。

感想:『スタートレック:ピカード』シーズン2第4話「ウォッチャー」(ネタバレあり)

第3話← →第5話

ストーリーの概略

 ジュラティ博士がボーグクイーンから盗み取った情報を手掛かりに、ピカードは3日後に時間の改変が起こると確信し、それを止めるべく自らも2024年の地球へ降り立つことにした。クイーンが隠そうとしていた座標にはテン・フォワードがあり、そこには若き日のガイナンがいた。ピカードは自らの素性を伏せてガイナンの協力を得ようとしたが、彼女は愚行を止められぬ地球人に愛想をつかしており、今まさに地球から旅立とうとしているところだった。ピカードはそんなガイナンを諭したが、まだ若い彼女の心を動かすことはできなかった。
 そこで、ピカードは最後の手段に打って出ることにした。自らが来訪した真の目的をガイナンに明かしたのである。それを聞いたガイナンには何か思うところがあったようで、ピカードをウォッチャーの下へ案内すると申し出てくれた。ガイナンこそがウォッチャーだと確信していたピカードは驚いたが、ウォッチャーの顔を見るや、さらなる衝撃を受ける。
 その頃、リオスは収容施設に連行されることが決まり、ラフィーとセブンはそんな彼を救出すべくカーチェイスを繰り広げていた。そして、Qにもある変化が訪れていた。 

老賢者ピカードと耄碌(?)し行くQ

 背筋がピンとしており、足取りもしっかりしているピカードだが、シーズン2の時点で90を超えた高齢者であることに変わりはない。かつてのように、戦闘を伴う上陸任務の先頭に立つことは最早できないのである。この意味で、『スタートレック:ピカード』は冒険ドラマでありながら、自分で冒険することもままならない老人を主人公に据えた異色の作品であると言える。
 本作におけるピカードは英雄その人というより、「老賢者」の役割を果たしているように思える。例えば、前回、ジュラティ博士がボーグクイーンの意識内に潜入したとき、ピカードは博士が元の世界に戻ってこれるよう外から声掛けをしていた。また、今回も、ガイナンに向かって「変化はゆっくり訪れるものなのだ。地球人を見捨てるのはまだ早い」と諭すシーンがあった。1つ1つの言葉を取り出せば、誰でも思い付けるような言葉ばかりである。しかし、それに重みや説得力を持たせることができたのは、ピカードのそれまでの生き方が大きいように思う。

 ピカード若い人たちのメンター的存在になる一方、同じく年を取ったように見えるQは自分の興味が赴くままに行動している。大勢の命を危険に晒しておきながら、それを「ゲーム」と称する傲慢さは相変わらずだが、今作のQには何らかの変化が起きているようである。本エピソードのラスト、Qは指を鳴らして何かを変えようとして失敗した。全知全能の存在に起きるはずのない事態である。Qはその様子に驚き「何と不吉な」と漏らしていたが、第2話でピカードを殴りつけたことからして、単なる不運ではないことは自覚していると思われる(その原因まで突き止めているのかは現時点で不明)。
 かつて、Q連続体は全知全能故に危機に陥ったが、QはそれをレディQと子供を作ることで克服した(『ヴォイジャー』におけるQ関連のエピソード群を参照のこと)。Qが子供を作ったことで連続体に変化がもたらされたわけだが、今作におけるQの変質もその変化が原因なのだろうか。つまり、連続体の変化に伴い、不老不死というQの属性までもが変化してしまったのではないか。
 TNGやVOYにおいて、Qが仕掛けてくるゲームはQが全知全能であることを前提に展開されていた。ところが、今作のQは全能性に陰りが見え始めており、自分の意志でゲームを制御できない状態に陥っている(衰えの程度にもよるが)。こんなことはシリーズ初のことであり、どう転がっていくのか見当もつかない。

孤独なジュラティ博士とボーグクイーン

 シーズン2に入ってからというもの、ジュラティ博士が疎外感を抱えていることが繰り返し示唆されている。これが大枠のストーリーにどんな影響を及ぼすのかは分からないが、繰り返されるということは何か重要な意味があると考えるべきなのだろう。しかも、博士の孤独や疎外感をネチネチつつくのは、あのボーグクイーンなのだから。
 本作のボーグクイーンはセブンやピカードへの執着があまり感じられない一方、どういうわけかジュラティ博士にただならぬ関心を示している。博士の力になれそうだと確信したときの満面の笑みや、博士が約束を反故にしたことに本気で怒ったのもその表れの1つであろう。VOYのクイーンでは考えられないことである。
 そうなった理由の1つには、博士が自分から一本取ったことに感心したことがあると思われるが、どうもそれだけではないような気がする。2人のやり取りからするに、クイーンもまた疎外感を覚えていることがその理由なのではないか。共同体から切り離されたボーグが不安定になるのはVOYで描かれており、クイーンもボーグである以上どこか落ち着かないのかもしれない(それをはっきり表に出したシーンはないが)*1
 相手の弱みに付け込もうとする姿勢は『ファースト・コンタクト』のボーグクイーンにもみられたわけだが、あのときのクイーンはデータに何ら共感していなかったように見える。しかし、今回のクイーンにはターゲット(ジュラティ博士)と交流したいという意欲が見られるように思う。

若きガイナンとウォッチャー 

 今回、若きガイナンが出てきたわけだが、想像以上の武闘派でかなり驚かされた。演じたイト・アゲイレの風貌はガイナンというよりも、『天使にラブ・ソングを…』のデロリスを思わせるものだったが、ガイナンの若い姿としてすんなり受け入れることができた。傾聴を得意とする人間にこそ見えなかったが、他者の苦痛に寄り添おうとする姿勢はあった。傾聴力はこの後数百年ほどかけて磨き上げていったと考えれば何ら不自然なことではない。
 ウォッチャーなる未知の存在も今回が初登場となるわけだが、どこかQと似た雰囲気があり、そう簡単に協力してもらえるような感じがしない。「何故ラリスの容姿でピカードの前に現れたのか」とか「ガイナンとはどういう関係にあるのか」みたいな疑問は尽きないが、そうした疑問に対する解答は後々提示されるだろうから、次回以降の感想で取り上げたいと思う。

*1:Twitterで「BQはボーグクイーンの略ではなく、ぼっちクイーンの略だ」的なツイートを見かけたが、これは秀逸だと思った。

感想:『スタートレック:ピカード』シーズン2第3話「同化」(ネタバレあり)

第2話← →第4話

ストーリーの概略

 執政官に追い詰められたピカード一行だが、ラフィーとセブンが一瞬の隙をついて彼らを撃退することに成功する。太陽に向かう一行を連合の宇宙戦艦が追尾してくるものの、ラ・シレーナ号のコントロールを掌握したボーグクイーンによってあっさり撃退される。その後、ラ・シレーナ号は太陽の引力を利用して2024年にタイムトラベルするが、その過程でエルノアが命を落としてしまう。エルノアを息子のようにかわいがっていたラフィーの悲しみは特に深く、ピカードを「Qと一緒にゲームに興じ、他者の命を弄んでいる」と非難した。
 ボーグクイーンによれば、時間の異常を引き起こした「ウォッチャー」なる人物がいるそうだが、クイーンはそれがどこの誰なのかを明言する前に機能を停止してしまった。一行にクイーンの回復を待っている余裕はなく、ラフィー、セブン、リオスが2024年の世界に降り立つことにし、ピカードとジュラティ博士が船に残ることになった。
 ジュラティ博士はクイーンを回復させるべく、ピカードの反対を押し切って彼女の意識に潜入した。クイーンに同化されそうにはなったが、博士は目的を達成する。しかも、クイーンの意識からウォッチャーの位置情報をどさくさに紛れて盗み出していた。
 その頃、セブンとラフィーは順調に情報収集を進めていたが、リオスは転送の失敗が原因でトラブルに巻き込まれてしまう。

感想

主要登場人物の置き去りと死

 私は第2話の感想で「窮地に陥ったピカード一行は、あわやのところで駆けつけたソージによって救出される」と予想したわけだが、この予想は見事外れた。それどころか、一行はソージを置き去りにしてタイムトラベルを敢行した。また、主要キャラの中でも特に好感度が高いと思われるエルノアもあっさりと落命した。医療ホログラムで何とか救命されるものとばかり思っていたが、ピカードがボーグクイーンの命を優先するという大局的な決断を下したため、手遅れになってしまった。
 これは今までの『スタートレック』ではなかったことのように思う。重要な局面で主要なキャラが登場しなかったケースは記憶にないし、主要キャラがこれほどあっさり退場したのもTNGのターシャ・ヤー以来ではないか。DS9のジャッジアやVOYのケスの退場はずっとドラマチックに演出されていた。今作の脚本家チームは必要とあらば主要キャラを旅の置き去りにするし、ストーリーの区切りでもない箇所で殺したりする「冷徹さ」を持っているようである。今後は覚悟して視聴しなければならない。

 シーズン1と2の間には2年の空白があり、その間に何があったかは登場人物による断片的な語りという形でしか説明されていない。ラフィーがエルノアを可愛がっていることは視聴者にもわかるが、そうなるまでに至った過程は一切語られていないのである。それにも拘らず、ラフィーがエルノアの死に慟哭するシーンが真に迫ったものになったのは、ミシェル・ハード(と吹替声優)の演技力のなせる業だといってよいだろう。

 これまでにないことと言えば、ラフィーが「Qと一緒にゲームに興じ、他者の命を弄んでいる」とピカードを糾弾したこともそうである。エンタープライズのクルーも度々Qのゲームに巻き込まれてきたわけだが、それを以てピカードを非難する者はいなかった。ピカードにしてみれば「理不尽にもQのゲームに毎度付き合わされている」という認識なのだろうが、それに巻き込まれて酷い目にあった者からすれば、ピカードはQとゲームで遊んでいると映っても不思議はない。

愛嬌のあるボーグクイーン

 Qから愛嬌の類が消え失せた一方、どういうわけか、ボーグクイーンが愛嬌や可愛らしさの類を身に着けている。『ファースト・コンタクト』やVOYに出てきたクイーンはその無機質かつ不気味な外見もあって、圧倒的なパワーを背景に全てを屈服させていく恐ろしい存在であった。本作に出てくるクイーンも外見に変わりはないし、かなり衰えたとはいえそのパワーはピカード一行をはるかに上回っている。
 しかし、演者のアニー・ワーシングの素質もあってか、そこには確かに愛嬌が感じられる。自分を出し抜いたジュラティ博士に「お前は私を感心させたぞ」と言い放つシーンがあるわけだが、そのときのクイーンはどこか楽しそうである。今までのクイーンであれば憤激し、直ちに抹殺しようとしたはずである*1。本作のクイーンは冷たいと言えば冷たいのだが、どこか温かみを感じさせる愛すべき存在になっている(勿論、今後のストーリーのどこかで突如温かみが消え失せ、冷酷一辺倒になる可能性はある)。

執政官のあっけない最期は伏線か?

 本エピソードの冒頭、第2話で強烈な存在感を放った執政官があっけなくフェイザーで撃ち殺されてしまった。ここだけ見ると、ソージ役のイサ・ブリオネスの父親、ジョン・ジョン・ブリオネスを敢えて起用した理由は特になかったということになる。しかし、それはあまりにも不自然ではなかろうか。
 ここからは単なる閃きだが、執政官がその死の直前に妻であるセブンに向かって「私の名前を言ってみろ」と凄んだのが伏線のように思える。もしかすると、「ウォッチャー」とは執政官の先祖のことであり、名前を知らなかったセブンが「ウォッチャー」に会ってみて仰天→複雑な感情を抱き始めるという展開が待っているのではないか。

ベル暴動とピカード一行の行動の関係は?

 ピカード一行は2024年のロサンゼルスで「ウォッチャー」を探し出し、時間の変化を未然に防ごうとしているわけだが、それと同じ年、サンフランシスコではベル暴動が発生することになっている(DS9「2024年暴動の夜」参照)。ベル暴動とは政府が失業対策に本腰を入れて取り組むきっかけとなった暴動で、DS9のシスコ一行が運悪く関与した暴動でもある。「ウォッチャー」とベル暴動に何の関係もないとは考えにくいが、その関係がまだ見えてこない。
 ベル暴動は保護区に収容された失業者達が起こした暴動だったが、今回、リオスが巻き込まれたのは移民問題である。失業者も移民も困窮していることに変わりはないが、両者の間で連帯が形成されているとはとても思えない。そのような状況下で、リオスはどのようにベル暴動と絡んでいくのだろうか。これは次回以降で自ずと明らかになるだろうから、楽しみに待っていようと思う。

 

*1:VOY最終話でボーグクイーンはジェインウェイ提督に出し抜かれたわけだが、「ようやった」的な反応は一切なかった

感想:『スタートレック:ピカード』シーズン2第2話「処罰」(ネタバレあり)

第1話←  →第3話

ストーリーの概略

 USSスターゲイザーを自爆させたピカードだったが、ふと気がつくと何故か自宅にいた。辺りを探るピカードの前に、因縁の相手、Qが突如姿を現す。ピカードはQに何が起きているのか問い詰めたが、Qは「裁判はまだ終わっていないのだよ」などと話をはぐらかすばかりであった。ピカードはそんなQに苛立ちを感じつつも、Qからかつてのような余裕が失われていることを感じ取っていた。
 やむなく、ピカードは独力で事態の把握に努めたが、その過程で自分が今いる世界が元いた世界とは別の世界であると確信する。ピカードが今いる世界に惑星連邦はそもそも存在しておらず、異星人たちを武力で征服する連合が代わりに存在していた。その世界でピカードは名将として讃えられており、来るべき公開処刑イベント、根絶デーで処刑人を務めることになっていた。驚くべきことに、その処刑対象はボーグクイーンであった。
その頃、ピカードの仲間たちも意識を取り戻していた。セブンは地球人アニカ・ハンセンとして連合の大統領になっており、ボーグに同化された痕跡の一切が消え失せていた。しかも、見知らぬ男が自分の夫(執政官)として存在していた。ほどなくして、ボーグクイーンと対面したセブンは今いる世界がパラレルワールドではなく、時間改変が行われた後の世界であることを知らされる。クイーンによれば、改変が発生したのは2024年のロサンゼルスであるという。
 そこで、ピカードたちは太陽の引力を利用してタイムトラベルを敢行することにしたが、それには極めて高度な計算能力を擁する人物が必要であった。ピカード一行にかつてのスポックのようなブレーンはいない。もはやこれまでかという雰囲気が漂い始めたそのとき、セブンが起死回生の一手を思い付く。

感想

提示された謎―特にQの変質について

 本エピソードは多くの謎を視聴者に残した回であったと言える。以下に謎を列挙しておく。 

・今作において生じていると思われるQの異常は、『ヴォイジャー』で描かれたQ連続体の変容と何か関係があるのか
・『スタートレック』の世界で2024年と言えば、DS9のシスコたちが巻き込まれたベル暴動(失業者などを収容する保護区の劣悪な環境に耐えかねた住民が起こした暴動)が真っ先に思い浮かぶ。ただ、ベル暴動が発生した場所はサンフランシスコだったわけだが、本作の時間改変は何故かロサンゼルスで発生したことになっている。これは何故か。
・製作陣がベル暴動が発生した時代にピカードを放り込んだ意図は何か。
・ボーグがピカードに助けを求めてきたことと時間改変にどんな繋がりがあるのか。
・今シーズンのモチーフになると思われる言葉「星を見上げなさい」と時間改変はどこかで重なるのか。
・ボーグクイーンがピカード一行に協力してくれることになったわけだが、素直に協力してくれるのか。途中で何か仕掛けてくるのではないか。
・執政官を演じたジョン・ジョン・ブリオネスはソージ役のイサ・ブリオネスの実の父親である。敢えて実の親子をキャスティングした理由はあるのか。

 シーズン2を通してこれらの謎に答えが提示されていくのだろうが、個人的に1番気になるのはQに何らかの変化が起きたという点である。シリーズ全体を通して、Qは不老不死かつ全知全能の究極の生命体として描かれてきた。傍若無人なところがあるとはいえ、どこか憎めないところがあった。ファンがQを愛してきた理由もここにある。
 ところが、本作のQには愛嬌がほとんどなく、全知全能故の余裕もどこへやらという状態である。指をパッチンするだけで全ての物事を意のままに動かせるのだから、ピカードが気に入らないからと言ってビンタを食らわせる必要はないはずである。金縛りにでもすればよい。しかし、Qは何故かピカードを引っ叩いた。これはQに異常が起きていることを示唆する。第1話の時点でもそれは感じられたわけだが、私はジョン・デ・ランシーの演技スタイルの変化によるものだろうと解釈してしまった。

ファン向けの小ネタ

 本エピソードは昔からのスタートレックファンを喜ばせる小ネタが多く含まれていたように思う。例えば、ピカード一行は2024年にタイムトラベルするために、太陽の引力を利用しようとするわけだが、これは『故郷への長い道』(1986年)でカークたちがタイムトラベルのために使った手法と同じである。この手法は極めて緻密な計算を必要とするらしく、スポックは普段なら絶対に使わないであろう勘まで駆使して成功へと導いた。今回、スポックの代わりをボーグクイーンが担うわけだが、彼女がどうやってこの難行を成し遂げるのか見ものである。
 他にも、グランド・ネーガス、マートク、シスコのような懐かしい名前を久しぶりに耳にすることができたのは良かったと思う。ただ、好感の持てるキャラだった前2者が頭蓋骨での登場というのは少しばかり残念なことであった。ガル・デュカットのように共感する余地が全くない極悪人ならこれでも良かったのだが。

ボケキャラとしてのエルノア

 第1話の時点で、私は「士官候補生になったのだから、エルノアはボケキャラではなくなり、クルーのボケ担当はジュラティ博士1人になるのだろう」と予想していたが、早くもこの予想は良い意味で外れた。エルノアのおとぼけは惑星連邦の士官候補生になってもなお健在であった。ラフィーのジョークを真に受けたり、「臨機応変に対応しろ」と言われて取り敢えず敵を皆殺しにしたりする姿は忠犬を思わせてくれる。敵を皆殺しにするシーンは下手をすると狂犬感が出てしまうわけだが、どういうわけかそうなっていない。エルノアの身のこなしが華麗なのと、ラフィーの絶妙なツッコミ故だろうか。
 ところで、エルノアが天然ぶりを見せたところでどうとも思わない私だが、ジュラティ博士がボケた言動を繰り出すのを見るとどうにもつらくなってくる。これは「共感性羞恥」というやつなのだろうか。

エンディングへの不満

 本エピソードは執政官がピカードを追い詰めて終了するわけだが、ここで区切りをつけたのは頂けなかったように思う。と言うのも、ソージが登場しなかったことからして、第3話の冒頭でソージがピカード一行を助けに来るという展開になることが容易に予想できてしまうからである。また、エルノアが負傷したとはいえ、リオスの船には医療用ホログラムが搭載されており、ちょっとした傷なら治療できてしまう。これなら「エルノアの生死は如何に」的な緊迫感が漂うこともない。
 一行がどう助かるのかが予想できてしまうが故に、緊張感に欠けるエンディングになってしまった感がある。これならば、執政官を撃退した後に太陽に向かって徐々に加速していくシーンで区切った方が良かったのではないかという気がする。

 

 

下村寅太郎と海外留学(メモ)

 通勤中に突然思いついたことをメモしておく。なお、現在、私は赴任先にいるため、『下村寅太郎著作集』が手元になく、出典を明記することができない。

 下村寅太郎は戦争のために念願だった海外留学をついに果たすことができなかった(下村の友人、西谷啓治はギリギリのタイミングでドイツ留学を果たした)。ヨーロッパの地を実際に訪れたのは50歳を過ぎてから、しかも旅行という形であった。それ以降、下村は1か月ほどのヨーロッパ滞在を4回経験し、晩年には「旅行といえども極めて濃密な時間であった」と述懐している。
 しかし、中年期以降の海外旅行を以て、青年期の留学経験が無いことを埋め合わせることはどこまで可能なのだろうか。普通に考えれば、20代までの蓄積で眺める海外と、50代までの蓄積で眺める海外には「深み」の差がありそうではある(鍵括弧をつけたことに注意)。ましてや、下村のように学問に打ち込み続けた人ならなおのことそうであろう。しかし、青年期の留学経験は中年期以降では得られない何かがありそうなのも大勢の一致するところだと思う。では、「中年期以降の海外経験では得られず、青年期のそれでないと得られないないもの」とは何か。これを言語化する必要がある。

 コロナ禍以前、私は下村が直面したこの問題を日本人が経験することはもうないだろうと楽観視していたが、コロナ禍以降は海外渡航もままならなくなってきた。下村同様、研究者として一番伸びしろがある時期に海外留学にいけず、中年期以降にその欠落に苦悩する人がこれから出てくる可能性がある(学者だけではないかもしれないが)。ロシアのウクライナ侵攻の行く末如何によっては、その人数はさらに増えると予想される。
 下村の経験を分析することはそうした人たちの「役に立つ」と確信しているが、困ったことに、「役に立つ」のは中年期以降である。今まさに留学経験を必要としている人の役には立たないであろうことは承知している。

感想:『スタートレック:ピカード』シーズン2第1話「スターゲイザー」(ネタバレあり)

 →第2話

 待ちに待った『スタートレック: ピカード』の最新シーズンが配信されたので、第1話「スターゲイザー」の感想を書き綴ってみたいと思う。

ストーリーの概略

 シーズン1最終話から1年ほどが経過した世界。人工生命体となったジャン=リュック・ピカードは地球に帰還してワイナリーの経営を再開し、長らく側で支えてくれたロミュラン人女性、ラリスとの間に淡い恋愛感情が芽生えていた。ラフィーは宇宙艦隊に士官として復職しており、エルノアは宇宙艦隊初のロミュラン人士官候補生になっていた。リオスもまた宇宙艦隊に復職し、USSスターゲイザー*1の艦長に抜擢され、ジュラティ博士―シーズン1で犯した罪は不問にされたようだ―の恋愛関係も続いていた。元ボーグのセブン・オブ・ナインがレンジャーとしてならず者たちと対峙する日々を送る一方、ソージは外交官デビューを果たしていた。
 エルノアを見送ってからほどなくして、ピカードはラリスに何も言わぬままUSSスターゲイザーに乗り込むことになった。同艦が時空間の裂け目に遭遇し、そこから「助けてピカード」という音声と惑星連邦加入を求めるメッセージが発信されていたためである。未知の存在との交渉に臨んだピカードだったが、裂け目から出現したのはボーグの戦艦であった。

2つの主題:「最後のフロンティア」への疑義と老い

 「宇宙、それは人類に残された最後のフロンティア」。これは『宇宙大作戦』(1966年-1969年)のOPで読み上げられる有名なセリフであり、『スタートレック』シリーズの熱心なファンではなくとも、一度は耳にしたことのあるフレーズだと思われる。同シリーズは『宇宙大作戦』以降様々な変遷を遂げた。もう少し具体的に言うと、人類の宿敵だったはずのクリンゴン人がクルーに入ったり(『新スタートレック』)、やや辺境の宇宙ステーションを舞台とし、後半部には1話完結の原則を破ったりする作品(『ディープ・スペース・ナイン』)が作られるなどした。しかし、その中でもなお、宇宙が未知ゆえのロマンや危険に満ちた「最後のフロンティア」であるという見方が変化することはなかったように思う。
 ところが、ここにきてシリーズの根幹をなす価値観に疑義が呈される。第1話の冒頭、年老いたピカードは「我々はしばしば宇宙のことを最後のフロンティアと呼ぶ。しかし、年をとればとるほど、最後のフロンティアとは時間のことではないかと信じるようになった」と後進に語り掛ける。後述のガイナンによる「貴方が求めているものは宇宙にはない」という発言と重ね合わせると、「最後のフロンティアとは本当に宇宙なのか。もし宇宙ではないとすれば、それは何なのか」という問題がシーズン2を貫く主題の1つだと思われる。このシーズンだけで決着がつくのかは不明だが、ピカードはこの問いにどのような解答を見出すのかしっかりと見届けたいと思う。

 もう一つ重要な問いは老いの問題であるように思われる。老年期はその時期特有の問題に加え、人生の各時期に直面した課題が形を変えて現れる時期である。もしその課題が未解決のままであれば、解決を迫られることになる。人工生命体になったとはいえ、90歳を超えたピカードもその例外ではなかった。ピカードが向き合うことになったのは以下のような問題である*2

・子供時代に目撃した両親の不和をどう理解すべきか。そして、その中で母から発せられた「星を見上げなさい」という言葉の意味は何か(児童期)
・人生の全てを宇宙艦隊での職務に捧げ、チャンスがあったにも拘らず家庭を形成しなかったこと。そして、そのためにピカード家が自分の代で絶えることになったという現実をどう解釈すべきか(成人期)。
・かつてのように活動できなくなった今、自分は何をなすべきなのか。近くにいる想い人と結ばれるべきなのか(老年期)。

 これらの問題は根っこの部分で結びついており、別個に解決できる問題ではない。例えば、児童期由来の問題を解決しない限り、ピカードはラリスとの恋を1歩進めることができないであろう。また、ラリスと結ばれるか否かは、成人期に家庭を形成しなかったことの意味付けに大きな影響を与えるはずである。 
 ピカードは一連の問題に向き合う中で、人生の重要事に何度も立ち戻ることになるはずだが、本エピソードにはそれを象徴するシーンがある。そのシーンとはピカードが有SSスターゲイザーに乗り込むシーンである。スターゲイザーピカードが艦長として初めて指揮を執った戦艦の名前と同じであり、彼がキャリアの出発点に立ち帰っていくことを連想させる。また、スターゲイザー(Star Gazer)は「星を見る者」という意味で、上述したピカードの子供時代のエピソードと結びつく。この2つにボーグやQの再登場を加えるなら*3ピカードスターゲイザー搭乗は今後の彼の行く末を示唆する重要なシーンであったと言えるだろう。

懐かしのキャラとの再会

 予告編が公開された時点で明らかになっていたことではあるが、ウーピー・ゴールドバーグ演じるガイナンとジョン・デ・ランシー演じるQの再登場はとても嬉しかった。かつてのキャスト陣が加齢によって却って魅力を増しているのは何と幸運なことだろうと思う*4
 再登場したQは『新スタートレック』や『ヴォイジャー』の頃に漂わせていた良い意味での軽みが消えていたが、その代わりに迫力が増した。「銀髪の悪魔」と形容しても全く違和感がないレベルに達している(今後の展開の如何によっては、かつての軽みを取り戻すかもしれないが)。ジェインウェイ艦長との交流によって多少は良心や常識の類を身に着けたQだが、本作ではどのような振る舞いを見せるのかに期待したい。
 ガイナンの温かみのある笑顔―どこか叡智すら感じさせる―は健在で*5、両者の立場は変われども、かつてのような「孤独なピカードの良き相談相手」としての姿がなおもあった。

問題点

 第1話には大いに満足させられたのだが、脚本の強引さが少しばかり目に付く。例えば、ピカードとラリスの関係である。2人がお互いに惹かれ合っていることを示唆する描写はシーズン1にはなかったと記憶している。また、シーズン1の時点で、ラリスには夫(ジャバン)がいたはずだが、シーズン2開始までのどこかで既にこの世を去っているという設定になっていた。ピカードのロマンスを描きたいがためにこのような強引かつ不自然な展開になったのではないかという疑念が拭えない。
 また、シリーズをずっと追いかけているファンであれば、ピカードビバリー・クラッシャーの関係はどうなったのかと思うはずである。これについては後のエピソードで説明されるのだろうか。それとも、過去にはそういうこともあった的な軽い扱いを受けて終わってしまうのだろうか。
 さらに言えば、ジュラティ博士がマドックス博士を殺したことが不問に付されていることにも違和感を覚える。博士の犯行はジャット・バッシュに唆されており、その後ピカードに協力したとはいえ、殺人は殺人であろう。ストーリーの都合上、科学士官の役割だけではなく、ボケキャラも演じられる彼女を最初から登場させる必要があったのだろうが*6、惑星連邦らしからぬことに思えてならない。

まとめ

 完璧な作品に仕上がっているわけではないが、シリーズのファンであれば感涙もののエピソードであることは間違いない。宇宙を舞台にした一大アドベンチャーを期待すると肩透かしを食らうかもしれないが、宇宙を舞台にした人間ドラマとしては上々の出来だと思う。

*1:ピカードが艦長として初めて指揮を執った宇宙戦艦と同じ名前。ワープナセルが4つあり、艦隊がボーグの技術を研究して得られた成果がフル活用されているそうだ

*2:ピカードは青年期にヤンチャをしたことを後悔していたようだが、Qのシミュレーションを通して、そのヤンチャも自分を形成するかけがえのない要素であることを受け容れるに至ったことがある。『新スタートレック』シーズン6の「運命の分かれ道」を参照のこと

*3:ピカードとボーグの因縁については映画『ファースト・コンタクト』や『新スタートレック』の「浮遊機械都市ボーグ」を参照のこと。また、両者を接触させたのはQであり、『新スタートレック』第1話以降、Qはピカードの人生にしばしば深く関わっていく。

*4:『ネメシス』(2002年)のライカー副長を見て「ジョナサン・フレイクスは何故体重を落とさずに出演したのか」と憤った記憶がある。『スタートレック: ピカード』のシーズン1に出てきたライカーは体型こそ変わらなかったが、不思議と貫禄が備わっていた。痩せた状態ではあの貫禄と風格は得られなかったと思う。

*5:アフリカ系の女優で温かみのある笑顔といえば、オクタヴィア・スペンサーも素晴らしいのだが、ゴールドバーグのそれとははっきり違う。前者は輪郭がはっきりとしているが、後者はどこかぼやけている。

*6:シーズン1ではエルノアもおとぼけキャラになっていたが、士官候補生になった彼にボケキャラを任せるわけにもいかなかったのだろう