読書メモ:中村雄二郎『現代情念論』(1962年)第3編第14章

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今回取り上げるのは中村雄二郎『現代情念論』の第3編第14章「小林秀雄における美意識と政治」である。この文章は中村が小林秀雄を論じた文章の中で、最もわかりやすいものだと思う。
今回も、1994年に出た講談社学術文庫版を参照している。

第14章:小林秀雄における美意識と政治(264-)

小林秀雄ベルクソン論は単なるベルクソン哲学の解説にとどまっており、もしそこにオリジナリティがあるとすれば、冒頭にある亡き母と蛍の話とベルクソンに対する執拗な情熱だけであろう。
小林の歴史観はいかにもベルクソン的であり、もうすでにベルクソン哲学から得られるものは十分自分のものにしているように思える。それにも拘らず、敢えてベルクソン論を書いているのは何故なのか。

小林は対話的な人ではなく、他人を理解する姿勢にも他人から理解される姿勢にも欠ける。

ベルクソンユダヤ教を棄ててカトリックに改宗したことは、単に「信仰を得た」で片づけられる話ではないはずだが、小林はそこに「信仰を得た後に何を語ることがあろうか」という神秘的沈黙しか見なかった。

ジャンヌ・マリタンはベルクソンの哲学の意義を認めつつも、「ベルクソニズムの思想と表現はきわめて個人的であり、人と人との間を結びつけるというよりは、人と人との連繋を断ちきって、一人一人を個我のなかに閉じこめる。そこでとらえられた真理は微妙ではあるが、不安定であり、堅固さを欠いている」と批判した(268)。
マリタンのベルクソン批判は小林にも当てはまるのではないか。

小林秀雄の作家論に共通して言えることは、「その文章が個々の作家の人生や芸術を簡単に解いてくれるというよりは、いかにかれらの孤独が奥深く、測り知れざるものがあり、「独創的」であって、「心虚しからざる」人々の理解を拒絶するか、そして、単なる実証的な研究や学問上の定説が、いかに真相をおおっているか」と独特な文体で論じているということである(269)。
読者は小林の独特な文章を読み解いた末に「真相」を垣間見ることができるが、真相は一層謎めいたものとして映るばかりである。

小林は源実朝にすらも近代的な「独創的な孤独」を見出している。
「ギラギラした、そして切迫した近代性と、永遠の相への超越―ヨーロッパの通念では、ほとんど回心によってでもなければ結びつきえない二つのものが、小林秀雄のなかでは微妙に融け合っている」(270-271)。
小林において、熾烈な自意識とそこからの解放は無媒介に結びつき、相互に浸透していると言える。
小林の思想を貫き支えているのは厳しさの美、美の厳しさ、美的ストイシズムとも言うべきものであり、そこに論理の一貫性や論理的徹底を見出そうとするのは無駄である。

小林にとって自意識からの解放とは、「解釈を拒絶するもの」への途である。それは美的超越とも言うべき途である。
美的超越は美意識化でもあるため、切迫した近代性と永遠の相への超越を融合・共存させることができた。
両者の融合は昭和初期の日本の知識人たちに共通する願望であり、小林はそれを成し遂げたように見えたからこそ、あれほどの名声を博したのだろう。
美的超越の途を行く以上、小林の思想は神秘主義と結びつくことはあっても、超越的な宗教と結びつくことはできないのではないか。美はそれ自身が救いなのだから。
一方、形而上学ベルクソン神秘主義は宗教に結び付きうる。形而上学それ自体は救いではないのだから。

小林が物質的なものを頑なに拒絶するのは、自意識からの解放の途として美的超越を選んだことと結びつく。
物質は解釈を拒絶するものではあるが、人生や芸術とは正反対の方向にあるもので、厳しい美の世界にとって異物でしかない。それ故、小林は物質を自己の思想から排除しようとする。
cf.小林のピカソ論とプラトン

読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第2編第2章

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前回の記事の投稿から少し間が開いてしまった感があるわけだが、とりあえず再開してみたいと思う。今回取り上げる箇所は『無の自覚的限定』に収録されている論文のうち「表現的自己の自己限定」から「私と汝」までを扱った箇所である。柳田は論文「私と汝」を以て西田哲学の中期と後期の境界線とするという独特な理解を示しているわけだが、この理解については次回以降で扱えれば扱うことにしたい。

第2編:無の自覚の倫理

第2章:無の行為的自覚(193-)

「イデヤ的なものは常に事実的なるものに即したものとして之を絶対無の自覚のノエシス的限定の方向に深めたものと考えられるが、かかるイデヤの事実性というも歴史的事実の意味」を持っている(199)。
イデアとは歴史的事実の底において、ノエシス的方向に見られるものである。
自己自信を失うことによってのみ、我々は絶対無の自覚に到達することができる。絶対無の自覚の内容は事実的である。
「自己に於て自己を限定するものが絶対の無なるが故に事実が事実自身を限定すると考えられる」(200)
絶対無の自覚とは絶対に非合理なものを合理化することである。
絶対無の自覚の立場においては、「自己限定的な事実そのものがノエマ的自覚の内容でもあれば又ノエシス的意義に於ての真の自己でもある」(201)。これは絶対無から流れ出て絶対無に流れ去る無限の流れに例えることができる*1

自覚は志向作用の極限において成立するのではなく、自覚によって志向作用が成立するのである。
「直観とか直覚とかいうことは対象的限定の方向に無限に自己自身を限定する対象的なるものが見られなくなると共に、反省的限定の方向に無限に自己自身を限定する自己というものも見られなくなり、「有るもの」が有るがままに自己自身を見るものとなるということである」(205)

「真に自己自身に矛盾するものは存在そのものが矛盾でなければならない。この意味に於て真の自己矛盾的存在とは我々の意志とか行為とかいう如きものでなければならない。行為の世界にあっては肉的なもの感官的なものがそれ自身最深の意味に於て自己矛盾的なもの」である(213-214)。
人格的事実は自己限定的「今」の内容として原始的歴史の事実とも言える。ただし、ここで言う原始的歴史とは歴史の始まりを意味するのではなく、「形成作用的な歴史的世界に於ける根源的事実、即ち一般的限定即個体的限定、個体的限定即一般的限定として行為的即表現的に物が見られてゆくこと、無の一般者の自覚的限定として事実が事実を限定すること」を意味する(216)。
「哲学は思弁的といわれるが哲学は単なる理論的要求から起るものではなく行為的自己が自己自身を見る所から始まる。内的生命の自覚なくして哲学というものはない。此の意味で哲学の真の問題は人生問題にある、行為的自己の矛盾的現実の悩みをはなれて哲学の真の動機は存しない

無の自覚的限定には2つの方向が存する。
直線的限定
ノエマ的限定に沿って弁証法的に自己自身を限定するもの、時間的歴史的に自己自身を限定するもの
円環的限定
ノエシス的限定に沿って弁証法的運動を包み、それを超越するもの
自愛は直線的限定の方向に、他愛は円環的限定の方向に考えられる
「真の他愛とは単に自愛の拡大ではなくて行為的自己が自己自身を失い、無限大の円の中心が中心否定の面によって消され、中心なき円の自己限定として表現の世界という如きものが成立する時、其底に考えられる」(219)。
「真の他愛とは我々の自愛がそれに於てある所の根柢に還ることによって汝を見るということである」
「真の自己の存在は単に理性的なる所にあるのではなくて寧ろ感官的肉的なる所にあり、唯その肉的なるものが同時に己れ自身の底に霊を見る所に存する」(220)。それ故に、自己の存在そのものは矛盾である。
「掴むことの出来ない現在を掴むものは愛である、行為の底には自己自身を愛するものがなければならぬ、行為とは自己自身を愛するものの時に沿うた自己限定に外ならない」(221)

「良心の声に従うということは純なる情意の要求に従うこと、私欲を離れ、考えられた自己を棄てて無にして自己自身を限定するものとなることである。事実が事実自身を限定する立場に立つことである」(222)
知識の世界も理論的良心によって成り立ち、そこには永遠の今の自己限定という意味がある。
西田哲学において、愛や良心は主観的・心理的なものではない*2

無の自覚のノエシス的限定が愛ならば、そのノエマ的限定は時である。
「対象的に自己自身を見ることのできないものが之を対象的に見ようとする時、それは何処迄も到達することの出来ない無限の過程とならなければならない」(223-224)
自覚的限定は無限の過程でありながら、それを超えてそれを内に包むものである。
「愛は分離的統一として独立自由なるものの統一なるが故に、我々は他愛によって自己を否定するのでなく自己を見出し、自愛によって他を否定するのでなく他を見出す」(224)。それ故、絶対無の自覚のノエシス的限定には社会的限定の意義がある。
「我々が無の自覚に於て生きるということは絶対の愛に於て生きるものとして社会的となることであるが、かく社会的となるということは個人的には死に外ならず、而もこの死に於て始めて真の永遠の生が見られる所に真の社会的自己というものがある」(224-225)
社会とは永遠の生命が自己自身を限定するという意味を持ったものである」(225)。

中期の身体論は真に具体的なものとは言えない。身体の表現的性格と行為的性格の矛盾的自己同一的関係もその端緒が示されるだけで、論理的に具体化されているわけではない。

愛の喜びとは自己が自己を否定することによって得られるものであり、そこに欲求の充足による喜びはあってはならない。真の愛は人と人の間にのみ存在する。

「我々が一身を賭して真に決断する時、我々は真の瞬間に触れるのである。かかる瞬間的限定に於て我々は始めて自愛即他愛なる愛の自己限定として当為に直面する」「我々は根本的に非合理なるが故に理性を有し、悪なるが故に良心を深くする」(231)
「我々の欲求的自己は愛の一般者によって限定せらるべくあるのである、罪は悔い改められるべくある」(232)
アガペーは価値創造の原理であり、エロスを基礎付けるものである。決してその逆ではない。

※エロスとアガペーの関係について、柳田は自身の論文「エロスとアガペ」だけではなく木村素衛の「表現愛の構造」を参照するよう指示している。

「真の愛とは単に欲求的に他を自己に従えることでもなく又徒に犠牲的に自己が他に従うことでもなくて、絶対分離的に相対立する人格と人格とが夫々限定するものなきものの自己限定として深きノエシス的結合を有つということでなければならぬ」(238-239)
「人格と人格とは絶対の無を距てて相対するものであるが故に絶対無の死即生としてのみ相結合することができる」(239)

*1:田辺元が西田哲学のこうした側面を発出論として批判したわけだが、柳田はそれを評価していたのだろうか

*2:では何なのか?

読書メモ:中村雄二郎『現代情念論』(1962年)第2編第10章

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中村雄二郎の『悪の哲学ノート』(1993年)はその後半部をドストエフスキー論に割いているが、『現代情念論』にもドストエフスキーを扱った章がある。それこそが今回取り上げる第2編第10章「ロシア革命の反世界―ドストエフスキー」である。両者の議論を比較することで、30年の間に生じた思索の変化を浮き彫りにできるのではないかという予想を立てているが、何か有意義なものが見いだせるという確信はまだない。
今回も、1994年に出た講談社学術文庫版を参照している。

第2編第10章:ロシア革命の反世界―ドストエフスキー

第1節(202-206頁)

19世紀のロシアには体系化された文明がなく、勢力を急速に拡大してきた西欧文明という異物を固形のまま飲み込むほかなかった。しかも、その異物は既に毒気を放っていた。
異物を飲み込んだ苦悶と興奮はドストエフスキーによって最も強烈に表現されている。
モンゴル人による支配を受けたために「中世の自律的発展が許されなかったロシアでは、西欧流のルネサンス宗教改革こそなかったが、ある意味ではかえって、西欧流のルネサンス宗教改革がみえなかった点も見えたし、また問題にせざるをえなかった。」(203)

政治は文学の反抗によって鍛えられるべきものである。文学は時の政治にとって直接的には有害かもしれないが、それ故に政治に対して益をもたらす。ドストエフスキーロシア革命の間の関係にもそうした逆説がある。

第2節(206-212頁)

19世紀のロシア思想において、ロシアは西欧と同じ道を歩むべきか、それとも独自の道を歩むべきかという問題は重要なものであった。

第3節(212-218頁)

「死刑寸前の減刑にしろ、このシベリア流刑にしろ、あとから考えればまことにドストエフスキイ的な事件が、そして作家ドストエフスキーの成長の上にきわめて重大な事件が、自己の信念の必然的結果であるというよりは、ほとんど偶然的な事情から強制されたことに、われわれは歴史と個性との間に相互に働く一種の牽引力を思わずにはいられない」(212)
「歴史は強烈な個性のためにその十全な開花うってつけな場所をしつらえる」(213)
『地下生活者の手記』において、ドストエフスキーは「世界の外的救済、そしてヒューマニスティックな救済にさえもはっきり背を向けて、あくまで「反世界」たる「地下室」に閉じこもり、人間性そのものをはるかい深層な基盤から掘りおこすという不逞な革命への道を歩み出した」(218)

第4節(218-225頁)

ドストエフスキーロシア革命との関係は直接的なものではなく、「地下」の世界の革命と地上の世界の革命とも言うべき関係にある。
ドストエフスキーにとって、無神論社会主義と対立するものはプロテスタンティズムやカトリシズム、資本主義ではなく、キリストだけであった。
※『悪霊』の一部を切り抜いてドストエフスキーを革命の預言者とみなすのは表層的な理解でしかない。
『悪霊』のスタヴローギンにおいて、無神論個人主義思想の究極形たる人神思想とロシア的メシアニズムが共存しているが、これこそ思想的に分裂したロシアを体現したものである。
キリーロフはスタヴローギンの人神思想の徹底的な遂行者である。

読書メモ:中村雄二郎『パスカルとその時代』(1965年)序章第1節

中村雄二郎の思索全体を貫くモチーフは2つある。1つ目は情念論と制度論の架橋、もう1つは「デカルトからパスカルへ、パスカルからデカルト」へという往還である。今回取り上げる『パスカルとその時代』(1965年)は後者を主題としたものである。中村の著作は平易なものが多いわけだが*1、本書は東京大学に提出した博士論文を原型とした著作であるため、中村の他の著作に比べるとはるかに難解かつ緻密な著作であると言える。

今回参照するのは『中村雄二郎著作集』第2期第9巻に収録されているバージョンである。同巻の解説に「めざしたのは、文献的な、あるいは訓詁学的な研究ではなく、三木清の『パスカルに於ける人間の研究』(1926年)を現代に生き返らせることであった」とあることを思えば(365頁)、三木のパスカル論から最初に読むべきなのかもしれないが、先に入手できた中村のパスカル論から読むことにした次第である。寛容のほどを乞いたい。

序論:思想の歴史的研究について

第1節:問題接近の姿勢と方法(1-14頁)

注1
この本が『デカルトとその時代』ではなく『パスカルとその時代』と題されているのは、17世紀全般(近代全般と言ってもよい)を覆う問題、とくに「近代思想と科学・宗教・政治」に関する諸問題を扱う際、パスカルを中心に据えた方が多角的な考察が可能になると考えたからである。
デカルトが時代の現実からあるていど距離をもって生き、かつ、その思想を形成し、理論化し、展開していったのに対して、パスカルは、時代の現実に、実にさまざまなかたちでコミットした生涯を送ったという相違もある」(11)

パスカルの思想は近代合理主義の典型としてのカルテジアニスムの問題性を鋭く映し出しており、その思想には近代の成立と克服という2つのモーメントがある。
中村は様々な仕事を手掛けてきたが、パスカル研究やデカルト研究から離れたときでさえ、2人の哲学は中村が思索する際の拠点であり続けた。これは当時の日本の哲学界では珍しいことであろう
現代の問題を考える際に、中村はパスカルデカルトの哲学から様々な示唆を得た。また、現代に生きる我々が直面する問題を考察することを通して、デカルトパスカルおよび両名が生きた時代の問題性をより深くとらえることができた。

自分なりの思索を進めるよりどころとして、どの国のどの時代のどの思想を選ぶべきかは一義的に決められない。それは問題が「歴史的な先人の(同時代人の場合もあるが)思想のうちに、われわれがなにを再発見し、そうした思想をわれわれがいかに深く読むか」というところにあるからである(2)。
「偉大な、あるいはすぐれた思想というのは、われわれにそうした再発見を可能にする思想にほかならない」(2-3)

「わたしは、自分の誤解によるかも知れないものであっても、先人あるいは他者の思想がわれわれの思考に与える刺激というものを、きわめて重要視してきたし、いまでも重要視したいと思う。われわれが先人あるいは他者の思想と、最初に、直接的に、また主体的にかかわりをもつのはその場面であるからである」(3)
他者の思想に触れることで得た着想が、その思想の誤解に基づいて得られたものであったことが明らかになったとしても、着想そのものをその思想の理解・解釈と遠ざけることで活用することは可能である(注3)。
他者の思想から刺激を受けるだけではその成果を学ぶに至らない。その成果を学ぶには「相手の思想を、その叙述に即して、理論的もしくは体系的に把握することが、どうしても必要である」が、これだけでも足りない。
その成果を学ぶには、究極のところ、我々が相手の思想と対話することで、その理論や体系の全体ないしは一部分を「自分の思想全体のうちに組みこむかたちで再構成する」必要がある(4)。
※他者の思想の徹底的な客体化を通して、その思想を自己の思想へと主体化していくという発想は中井正一の『美と集団の論理』に触発されたものだが、その考えの適用方法は中井と中村では異なっている(12)。
「われわれにとって、直接的にとらえうる現実は限られたものであるし、文明の発達と社会生活の組織化の進行にともなって、直接的にではなく媒介的にしかとらええないことのもつ重要性が増してきている」(4)

他者の思想を研究する際、それだけを体系的・理論的に理解するに留まることはできない。他者の思想はその時代・社会の価値体系や意味体系の中で意味づけられたものだからである。
他者の思想を客体的に把握し、それを自己の思想へと主体化していくには、思想自体を体系的に理解するだけではなく、思想史的に研究していく必要がある。
※それはHistory of Ideasを研究する場合に限らず、いかなる研究においても必要である。また、概念として明確に提示されているわけではない語に対しても、その語の歴史的・社会的意味を考慮に入れる必要がある(13)。
歴史的なものとして客体的に把握された思想は、無限の豊かさを持った、我々が直面する現実とは別個の現実として現れる。このとき、客体的に把握した思想を自己の思想へと主体化することはどのようにして可能となるのか。
「歴史的なものとして客体的に把握された思想のドラマを追跡することによって、ある歴史的な現実の総体のなかで、その思想家とともに、選択し、決断することをせまられる」(8)

「歴史的なものとしての客体的把握の徹底、つまり対象化の徹底ということ自身、元来が主体のもっとも主体的な働きにほかならないから、自己の思想への主体化の契機は、すでにそこにある」(9)
but
そうであるならば、高度に文献学的な研究が必ず「自己の思想への主体化」に至るわけではないのは何故か。
対象化の徹底は事物の分析的把握を容易にし、事物から人間的意味を奪い、高度な操作を可能にする。これは近代自然科学の成立に際して見られたものでもあり、自然的あるいは自然化された事物を把握するには極めて有効である。
しかし、他者の思想は単なる客体ではなく、「自己のうちに、独自の意味体系とそれを統一する主体」を持っている。他者の思想を操作可能な客体物としてのみ把握した場合、その有機的・統一的な意味が失われ、解体されることになる。
客体的把握によって解体された他者の思想を、再度有機的なものへと統一することは、「その思想の独自の意味体系とそれを統一する主体を回復させることであり、それはさらに、われわれにとって、その先人あるいは他者の思想を、自己の思想へと主体化することにつながる」(14)

丸山真男が提示した思想の四次元
①最も高度に抽象化された体系的な理論、学説、教義
②世界についてのイメージである世界観、世界像、人生観
③「具体的な問題に対する具体的な対応」としての意見あるいは態度
④理性的反省以前の生活感情、実感、生活ムード
思想を推進するエネルギーは④から①に向かって、目的設定による方向性は①から④へと向かっていく。
「思想」という語を使用する際には、この4つの次元のどれを意味しているのかを明確にする必要があるが、ある次元にだけ限定することは困難である。しかし、どの次元を重視するのかを指し示すことはできる。
他者の思想を客体的に把握し、それを自己の思想へと主体化することを目標にしているため、中村は本書において②と③の次元を重視しつつ、可能な限り、その考察を①や④の次元にも広げるという立場をとる
従来の哲学史はもっぱら①の次元を扱い、思想を静態的に理解していたといえるが、中村は思想を動態的に理解しようとする。
④の次元の思想を直接考察対象とするとき、恣意的解釈や統一の欠落を招きやすいが、②と③を中心とすることで、それを回避できる。

 

*1:だからと言って内容が薄いということではない。念のために付け加えておく。

読書メモ:中村雄二郎『現代情念論』(1962年)第2編第7章

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今回取り上げる『現代情念論』の第2編第7章「マイナス伝統論」は1960年代の日本思想における主な文明論の欠点を剔出し、それを克服する道を示している。また、ドラマと哲学を結び付けている点に、後年の演劇的知の萌芽が見られることも注目すべきであろう。


今回も、1994年に出た講談社学術文庫版を参照している。

第2編第7章:マイナス伝統論

第1節(132-135頁)

日高六郎による「時代の共通意識・無意識とつながらないところでものを考えられないのに、我々がものを考えることができるかのようにふるまっているのは空しい」という趣旨の警告は正しかったが、この警告自体、時代の共通意識と結びつくことがなかった。
「敗戦は知識人たちによって一般民衆の共通意識との強固なつながりを持ちえなかった「平和への途」とされ、また同時に敗戦は一般民衆の共通意識によってまるで暴風雨でも終わったかのように「敗戦」としてうけとられる、という奇妙な背離の大勢を進行させた」(133-134)

未来像やヴィジョンのような問題が正面切って取り上げられるようになったことは、日本において、敗戦によって解放された科学的思考(社会科学的思考)がその真価を問われる段階に到達したことを意味する。
ここに至り、科学的思考・社会科学は事実の分析と情念やエトスのようなものを正当に結び付け、未来へのヴィジョンを描くことを要求される。

科学的思考・社会科学、さらに言えば思想は日本の伝統との対決を余儀なくされるであろう。

第2節(135-139頁)

日本人の心に響く人間的品位のモデルを作り出せるのは皇室と共産主義者のいずれか。この問題が重要になると中村は考えていたことがあった。
but
そもそも、人間的品位のような審美感は日本の思想や文化の最後の拠点たりうるものなのか。

日本浪漫派の保田与重郎、京都学派の高山岩男、文学界の小林秀雄は戦中思想の主流派に属する。この3人の思想には「対立解消」あるいは「包み込み」の思想という共通点が存する。これこそが日本思想・日本文化の偏角である
高山の思想の根底には無で有を包む西田哲学由来の弁証法的発想がある。

第3節(139-142頁)

対立解消ないしは包み込みの思想は「知識人の側にあっては大勢順応およびその正当化のロジックになるのに対して、体制思想としては知識人のそうした動きを促進する、「平和的(?)武装解除」のロジックになる」(139)
敗戦は無責任の体系への反省を促すだけではなく、包み込みの思想という偏角への対処をも促した。

主として戦前戦中に活躍した小林秀雄和辻哲郎の思想にはマルクス主義や社会科学への対抗という側面があったが、福田恆存(小林の思想的後継者)と竹山道雄(和辻の思想的後継者)の場合はその側面が一層強くなった。
そうなった理由としては、戦前戦中に潜在的だったマルクス主義や社会科学が戦後になって顕在化したためというのも勿論挙げられるが、それだけではない。
福田や竹山は戦争中に小林や和辻以上の「市民性」を身につけており、非自由主義的・非個人主義的なマルクス主義・社会科学主義に対するものとして自らの思想を展開しようとした。
彼らの「市民性」は敗戦前には単なる政治嫌いにとどまっていたが、戦後、知識人による「醜い」転向騒ぎを目の当たりにした結果、非政治的立場から反政治的立場をとるようになった。
2人の反政治的立場は自由主義に依拠するものだが、その自由主義は戦闘的なものではなく、防御的なものである。

第4節(142-147頁)

福田恆存小林秀雄の「美とは事件である」という命題を2つの方向に推し進めた。
・福田は小林の内的ドラマを外在化・立体化し、演劇を文学の中心に据えた
・福田は小林のように美意識で全てを包み込むようなことはせず、美意識を以て政治に、心理主義を以て政治主義に、文学を以て社会科学に抵抗しようとした。
福田はすべてを心理的現実の場に引き付け、平和論者や進歩主義者を批判した。その批判は的確なものが多い。
but
福田によって代表される戦後の反社会科学的知性が、反社会科学者的知性とならざるをえず、社会科学派と反社会科学派の議論がすれちがうばかりで嚙み合わないのをきわめて不幸なことだと思う」(144)
社会科学派と反社会科学派の双方が日本思想の偏角に目を向けない限り、このすれ違いが解消されることはないだろう*1

和辻哲郎において美意識と自由は融合していた。そうなり得たのは和辻における自由が大正期の教養主義的な自由、つまり、洗練された自由だったためである。
和辻の思想的後継者、竹山道雄は「美意識を「文化国家」日本の最後の拠点とし、これを著しくとぎすます一方、外に向かって主張される自由も裏返ったかたちの政治主義」として展開した(145)。

竹山には戦時中からファシズムやナチズムと戦ってきたという誇りがあり、そのために、美に著しく傾斜し、左右の全体主義を執拗に憎んだといえる。
竹山のように左右の全体主義を筆で一刀両断して済むのなら、誰も苦労はしない。

われわれが「無責任の体系」を拒絶し、「対立解消」および「包み込み」ロジックと絶縁しようとするならば、美意識の基底にあって現実と美的にのみかかわる「絶対無」のもつ偏角をなんとかしてたださねばなるまい」(147)

第5節(147-150頁)

福田恆存竹山道雄は日本の文化・伝統をヨーロッパとの結びつきの中でとらえており、「明治以降の近代日本に振子運動のように次々と交代継起した国粋主義と欧化主義の悪循環を、かれらは政治制度、社会生活上では近代主義、美的生活では相対主義に自らを据えることによってたち切ろう」とした(147)。
but
日本をアジアやアフリカとの関係でとらえようとしていない。

梅棹忠夫の「文明の生態史観」
梅棹がアフガニスタンで得た実感と文化人類学的な理論によって、近代もまた一つの伝統であることが根拠づけられている。
梅棹が提出した「よりよい暮らし」という価値基準は、加藤秀俊が言う「快適と能率の哲学」と相通じる。両者の理論は明治以降の資本主義化した日本、近代化した日本の延長線上に出てきたものであり、竹山のような美意識派と通じている。
※竹山の新日本史観は梅棹の生態史観を踏まえたものである。
つまり、梅棹の理論と竹山のそれは表と裏の関係にある。

第6節(150-153頁)

堀田善衛はアジア・アフリカから日本を見るという文明論を展開している。
堀田には「土着的なものを即物的に、グロテスクにとらえて、日本的美意識、つまり心理主義的、感情移入的、美的モラリズムから脱出しようとする姿勢がある」(151)。この意味で、堀田の美意識に対する態度は竹山のそれと反対のものだといえる。
堀田は無責任の体系を生み出す日本思想の偏角と戦おうとしているが、最後のところで、日本的無常観を一切を包む絶対無とみなすという失敗をした。
その結果、堀田は「その即物主義的視点を大アジアロマン主義ともいうべきもので浸す一方、国民的エネルギー、民族主義の高揚ということに価値基準の大半がおかれることになり、かつての対ヨーロッパ劣等感にかわる、対アジア・アフリカ劣等感を醸成することになった(153)。

第7節(154-159頁)

アジア・アフリカとヨーロッパの2方向から日本を見直すことが必要であるが、そこでは、小林秀雄福田恆存的な心理主義偏角和辻哲郎竹山道雄的な無の美学の偏角梅棹忠夫的な近代主義の「有効性をこえるもの」の欠如、堀田善衛的な日本的無常観とヨーロッパ的虚無の混同を乗り越える道を示す必要がある。

谷川雁の『原点は存在する』や『転向者宣言』ほど印象に残る本は近年なかった。
アジア・アフリカ→日本←ヨーロッパという平面的な三本立てを自立性と創造性のある思想の内部装置に変換するには、それを動くものと停滞するもの(谷川の言う「前衛」と「負の原点」)の対話としてとらえる必要がある。
谷川の「前衛」と「負の原点」の対置は「論理と感性、意識と下意識、機械と大地、首都と故郷、男と女、知識人と大衆、ヨーロッパとアジアその他無数の分身を生み、それぞれをめぐっての奔放で、強烈なディアレクティクは、ソクラテスのアイロネイアの方法よろしく相手のゆがみを匡正する。いや、激しい否定をぶっつけることで、相手をよろめかせ、よろめきから回復力によって相手自身に自ら匡正させる」(158)
この対話はむしろドラマというべきかもしれない
「工作者の論理」とは「思想の内的ドラマ、自己のうちで対峙し合う二つのロジックが外に向かって開かれたもののことを指す」。そこでは「啓蒙あるいはコミュニケーションが同時に思想活動となり、思想活動が同時に啓蒙あるいはコミュニケーションになるという、本来きわめて当然なことでありながら、永らく見失われていた立体座標が回復される」(159)。

*1:この問題意識は晩年まで保持されるが、社会科学的な知性を主語的、反社会科学的な知性を述語的とみなし、後者を西田哲学に代表させるという視点はまだない

鈴木亨氏による中村雄二郎評(メモ)

近年、東京大学を拠点に独自の哲学を構築しようとした人々を総称する「東京学派」という概念が提唱されている。「南原繁廣松渉大森荘蔵坂部恵が同じ学派に属するとして、その4人にどのような共通点があるのか」とか「京都学派のように、東京学派を知的ネットワークとして定義するにしても、この4人に相互影響関係を見出すことができるのか」、「京都大学東京大学で教鞭をとった和辻哲郎はどのように位置づけられるのか」などのような疑問はあるにせよ、京都学派以降の日本哲学に関する研究が盛り上がる気配を見せていることは大いに歓迎すべき傾向だと思われる。
しかし、東京学派という概念を以てしても、取り残されてしまう哲学者が少なからずいる。今回のメモ書きで取り上げる中村雄二郎鈴木亨氏もそれに該当する。中村は明治大学、鈴木氏は大阪経済大学に職を得ていたので、東京学派には該当しないだろう。そうなると、この両名をどうやって取り上げたらよいのかという難問が存するわけだが、手掛かりになりそうなものはある。
鈴木亨氏は1993年に出た『中村雄二郎著作集』第9巻の月報に「中村さんとの関わりを思う」という文章を寄稿しているが、短いながらも示唆に富む文章である。少なくとも、中村や鈴木氏の哲学をどう扱うべきかの手掛かりにはなると思う。

「中村さんとの関わりを思う」抜粋+メモ

「中村氏と私の思想の型はほとんど対蹠的であって、私があくまで原理的、体系的に思想を展開しようとするのに対して、氏は現在の極めて広い哲学以外の領域と具体的に関わりながら、それらの成果を自分の思想の中に取り込んでゆく型である」(1)
→鈴木氏の『西田幾多郎の世界』と中村の『西田幾多郎』『西田哲学の脱構築』を一読したものであれば、この対比が的を射ていることがわかる。最終的に、氏は「存在者逆接空」という根本概念を基礎に据えた哲学体系を構築するに至るが*1、中村はある一つの根本概念を以て種々の物事を基礎づけるないしは説明していくという哲学を構築することはなかった。
なお、後年、中村は「早くから体系的な思考をめざす人たちもいるけれど、それは、私のめざす途ではなかった。思考の体系化というようなものは、むしろ<分散化>を通して、次第に、またおのずと形づくられるものだと、思っていた」と述べている*2

「日本当代を代表する優れた哲学者の一人であることは間違いない」
→このような認識はどこまで広く共有されているものなのか。「中村は臨床というテーマに着目した最初期の日本の哲学者である」という事実は多くの人の認めるところだろうが、中村の哲学に京都学派や東京学派の哲学ほどのポテンシャルがあるという主張にはどれくらいの人が同意するだろうか?


脱構築といって現代思想の多くは既存の体系を拒否し、解体作業を中心とするのだが、中村氏の優れたところは、単に解体し、否定するのではなく、そこから新たな具体的現実に見合う新しい概念を見付け出すところが、従来の単なる脱構築者とはまるで異なる優れた点である」(2)
→中村がいう「脱構築」が何を意味するのか、それはデリダ脱構築とどう違うのかという問題はあるにせよ、中村の脱構築は単なる解体ではない。例えば西田哲学論を見ても、西田哲学の体系に沿うのではなく、自らの「問題群」に即す形で西田哲学を論じている。しかし、それは単に西田哲学の体系の解体を企図したものではなく、西田哲学のポテンシャルを引き出すためのものであった。中村は絶対矛盾的自己同一や行為的直観のような西田独自の述語を「問題群」に引き寄せて読解することで、個々の問題と関わりのある(当時の)現代思想との繋がりを見出すことに成功したと言える。つまり、中村は内に閉じていた西田哲学を外部に向かって開いたのである*3

「かつて「思想のベスト・セラーを作り出す男」と評されたこの人の思想はあくまで華やかであり、私の地味で抽象的な体系とはまるで相反しながら、どこかで相補強しあっているののであろうか」
→京都学派研究においても、「華やかな」西田や田辺に注目が集まる一方で、経験や身体などの日常語を術語とした三宅剛一の「地味な」哲学には注目が集まらない傾向にある。しかし、「華やか」な哲学も「地味な」哲学の緻密かつ堅実な研究を多く参照することで生まれたものであり、「地味な」哲学も「華やか」な哲学の影響を受ける。「華やか」なものだけ見たのでは片手落ちなのだろう。

「常に新しい現実に対応し、それを包括する思想が展開してこその京都学派なのである。ただ西田や田辺や久松を単に解釈するだけならば、それがいかに精緻に為されたとしても、それは京都学派でもなんでもない。ただ京都大学出身者の集団であるに過ぎない。それにしても中村氏の二冊の西田哲学論に対して拮抗するだけのものをほとんど持たない幻の京都学派はいかにも淋しいことである」
→何とも痛烈な文章である。1993年の時点で大橋良介氏の『西田哲学の世界』はまだ世に出ていないが、上田閑照氏の『場所 二重世界内存在』や辻村公一の「有の問と絶対無」は公刊されている。それでもこのような主張が出てくるのかと思わずにはおれない。
上で引用した主張に同意するかは脇に置くとして、中村も鈴木氏も西田哲学を踏まえて「常に新しい現実に対応し、それを包括する思想」を展開したのだから、両名は京都学派の流れをくむ哲学者として位置づけられるのではないか。

「氏が難関に逢着するとすれば、それは宗教の問題であろう。氏は平常心や平常底について『西田哲学への問い』で触れていられるが、十分に意をつくしているとは言いがたい(中略)。しかしこの問題は容易ではない。氏がこの問題を乗り越えられるとすれば、世界でも一級の思想家になるだろう。しかしこれはもって生れた資質にもよることであろう」(3)
→この箇所を読んだだけでは、鈴木氏が何に不満を抱いているのか具体的に知ることはできない。ただ、中村の宗教論に対しては「宗教の問題を扱いながら、宗教の内側には入らずに、外側から見ている」という批判があったようだ*4。宗教の内側に入らず―中村の言葉を借りれば「一挙に絶対に到達するのではなく」―に宗教を論じるとどのような問題があるのであろうか。

 

*1:そこまでの鈴木哲学の歩みに関しては、喜多源典氏の論文「鈴木亨の「存在者逆接空」の哲学とその射程」を参照のこと

*2:『述語的世界と制度』359頁, 1997年

*3:奇怪な文体と術語のために、西田哲学はそれを専門としない者にとって容易に理解できない哲学、つまり、閉じた世界になっている。門外漢にとって理解が難しいという性質はどの哲学にも多かれ少なかれ存するが、西田哲学の場合はそれが特に強く出ている。そこで、中村は西田哲学の重要概念を自分にとって重要な問題と結びつけ、あえて西田哲学の体系から距離をとるというアプローチを採用した。例えば、純粋経験は自己や経験という問題に結び付けられ、小林秀雄森有正の経験論、ユングの自己論と繋げられる。こうすることで、西田哲学の現代における意義を考察できるようになり、他の思想との対話も可能になる

*4:中村雄二郎『問題群 哲学の贈りもの』著作集第9巻279頁, 1988年

読書メモ:中村雄二郎『現代情念論』(1962年)第2編第6章

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中村雄二郎は「日本の哲学のあり方」について考察する文章を書いている。その時々の思想の流行を踏まえながら考察がなされているため、思想史的には興味深い文章に仕上がっているが、どれを読んでも批判点や結論にさしたる変わりはない。ただ、今回取り上げる『現代情念論』の第2編第6章「哲学の日本的錯覚と幻想」では、西田哲学に対して終始否定的な評価がなされている。中村の西田に対する関心は「共通感覚の発見」に至るまでの過程で徐々に深められたもので、哲学者としてのキャリアをスタートさせた時点ではさしたる関心を持っていなかった。本章はそれを裏付ける内容である。
今回も、1994年に出た講談社学術文庫版を参照している。

第2編第6章:哲学の日本的錯覚と幻想

第1節(114-118頁)

当時の哲学会にはデカンショ的な重苦しい雰囲気が漂っていた。
日本の「テツガク」に生活はあるのか、人々の生活と何らかの関係を有しているのか。
明治以降、近代日本はヨーロッパの技術文明を受容したが、それだけで技術文明を使いこなし、東西両文明を綜合したと錯覚した。あるいは、「西洋の技術文明(社会技術としての立法、行政、司法の諸制度の制定および運営を含めて)を日本的に結実させえたものと錯覚した」(116-117)。
明治の末年の時点で、日本の観念論哲学はこの錯覚を先取していたが、井上哲次郎西田幾多郎ですら錯覚の自覚はなかった
井上の『国民道徳概論』(1912年)は「以後の道徳教育界に与えた影響の大きさからいっても、かれの東西両洋にわたる該博な知識の(つまりは明治の体制思想の)総決算としても、単なる通俗書として片づけられる性質のものではない」(117)
井上による洋の東西の融合は外面的だったが、西田による洋の東西の融合は内面的なものであった。久野収ならば前者を顕教的、後者を密教的と評したであろう。

第2節(118-122頁)

東西文明の融合をなしたという錯覚は近代日本の制度が「要請」したものであるが、同時期、哲学が万学の王であるという幻想も知識人(特にテツガクシャ自身)において広く共有されていた。
前者の錯覚は敗戦によって錯覚であることが暴露されたが、後者の幻想は敗戦によって打ち破られることがなかった。

明治中期以降、ドイツ観念論が日本の哲学会で有力なものとなったが、その影響は完了や一般の知識人にも及んだ。
ドイツ観念論が「概念化する」(あるいは「哲学化する」)ことを通して、先進英仏文明を見渡す視点に立とうとしたのに対して、わが哲学者たちの多くは「概念化されたもの」(あるいは結果としての「哲学」)を通して、ヨーロッパ文明を眺めていたり、概念とは現実を概念化したものであることを忘れて恣意的な概念の積み木細工にうち興じて(?)いたに過ぎなかった」(120)
ドイツ観念論自体にも哲学を実体化する傾向があったが、日本ではその傾向に一層拍車がかかり、「哲学のための哲学」が形成されることになった。

「哲学が万学の王である」という幻想やその残滓はマルクス主義実存主義に見られる。「実存主義はえてして「万学の王」の幻滅あるいは「廃王コンプレックス」ともいうべきものがあるし、マルクス主義は血気さかんな「万学の王」幻想を誘発しやすい」(121)

「哲学が万学の王である」という幻想は哲学的思考の本質と相容れない。
パスカル「哲学を蔑視すること、それが哲学することだ」
哲学にあっては、否定を通しての自己還帰の運動、自己を問いなおし、出立点に立ちかえる運動そのものが、哲学の哲学たるゆえん」である(121)。哲学の学問としての特異性と曖昧さはここにある。
「ときにわれわれの重荷とも負担ともなるような伝統的哲学用語も、実は「学」としての哲学の厳密性のためというよりは、自由な立ちかえりのための途をきりひらくためであった、とみるべきではないか」(122)

第3節(122-125頁)

敗戦後の日本において、哲学は科学との比較においてその有効性や存在意味を問われている。日本の哲学者の多くが「哲学が万学の王である」という幻想に長らく安住していたことを思えば、この問いに向き合うことは必須である。
哲学はとうに「万学の王」ではない。哲学から自然科学や社会科学が既に分化している。論理学は既に哲学から自立しつつあり、社会心理学などによって倫理学も科学化されていくだろう。
but
だからと言って、哲学は個別科学のうちに解体していくと考えるのは行き過ぎである。
それは科学がそのまま哲学化され、客体がそのまま主体化されるという現象であり、却って危機を悪化させることになる。

哲学は「実体的に無意味であり、つまり、ナンセンスであることを自覚することによって、はじめて、機能としての否定を通して自己還帰の運動が活発に行われる」(123)。
それ故、哲学の最大の敵は自己還帰の運動を失って硬直化した哲学自身、哲学を硬化させた哲学者の怠慢である

哲学が自己還帰の運動を失ったとき、哲学者は2つのタイプに分裂する。
「哲学しがみつき」型
自らの専門分野に固執する。その理論は精緻を極めたものになるが、外部の人間には容易に理解できないものとなる。弁証法を標榜する哲学がこうなることもあるが、それはナンセンスである。弁証法自体が自己還帰の運動を意識的に理論のなかに取り込んだものであるのだから。
「哲学三下り半」型
哲学の不毛さに愛想を尽かし、政治的実践や宗教、諸科学に移る。哲学が個別科学のなかに解体されるという論者はこのタイプである。

思想や理論、学説は記憶したり崇拝したりすべきものではなく、「疑いつつ自分の頭で再発見すべき」ものである(125)。
「経典主義・教条主義権威主義とはまさにそこを誤ったことによって生ずるものであり、そんなものは思想でも哲学でもない」

第4節(126-131頁)

「哲学的思考は自己を「否定を通しての自己還帰の運動」(機能)として定立するとき、まさにその「否定を通しての自己還帰の運動」によって実体をとりもどす方向へ赴く」(126)

日本の哲学には祖述的・解説的な研究はあるが、「共通の問題意識の上に立った、自己の全存在を賭けての思索」はほぼない。失敗した思索は哲学の厚みをもたらし、成功した思索を支えるものだが、日本にはそれが欠如している。
共通の問題意識が欠如しているのは、日本の哲学が「生きた現実の問題」を回避しているからである。

上山春平は共通の問題意識になり得るものとして「日本近代哲学史研究」と「論理学」を挙げているが、中村は「日本人の思想と論理」を挙げる。

「哲学や思想が自立性を獲得し、エネルギーをチャージするためには、認識の眼を曇らさないことによって、状況との対応(順応ではない)が可能な主体を鍛え上げるとともに、思想伝統の再発見あるいは伝統思想との強烈な対決が必要である」(129)
かつて、梅原猛は原佑の学会報告「気分―人間学的序説」に噛みつき、ハイデガーに依拠するばかりで自分で哲学するという姿勢がないと批判した。

「日本人の思想と論理」を共通の問題意識とするメリット
マルクス主義
→他の立場からの批判に身をさらすことで、日本の唯物論的伝統を確認する機会となる
実存主義
→実存という概念が日本的心情を扱う際にどれだけ有効かを検証することができ、分析哲学からの批判に自らの理論がどこまで耐えられるのかを知る機会になる
分析哲学
→これまで具体的な成果を上げていないが、これを機に実際の効力と限界を示すことができる。また、日本語の特殊性についても考察がなされるだろう。
プラグマティス
→平板だった自らの視座を立体化・深化させる機会となる
哲学史家・思想史家
→歴史的視点に体系的視点を導入し、編年的な歴史記述を反省する機会となる

日本の哲学者たちが「日本人の思想と論理」を共通の問題意識として討議を行うことで、「われわれが日本人として、非日本的な方法を通して自己の思想伝統を知ることになり」、「哲学の各立場、各方法が共通の問題意識のなかで、他の立場、他の方法の批判を通して、自己を鍛え上げて行く」ことになる(130)。