京都学派

読書メモ:辻村公一「有の問と絶対無」(1966年)序言

辻村公一の博士論文『ハイデッガー論攷』(1970年)は4つの本論と3つの付論によって構成されているが、7つの論稿の内的連関を明示するための論文がついに書かれなかったこともあり、それぞれがどう繋がっているのかを推測するのは容易ではない。そこで、今回…

読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第2編第2章

前の記事へ← 最初の記事へ← 前回の記事の投稿から少し間が開いてしまった感があるわけだが、とりあえず再開してみたいと思う。今回取り上げる箇所は『無の自覚的限定』に収録されている論文のうち「表現的自己の自己限定」から「私と汝」までを扱った箇所で…

読書メモ:西田幾多郎『善の研究』(1911年)第1編第2章

前の記事へ← 前回に引き続いて、西田幾多郎の『善の研究』を読み進めていきたい。今回も『西田幾多郎全集』新版第1巻に収録されているバージョンを参照した。 第1編第2章:思惟(16-24頁) 判断は独立した二つの表象を結合するものだと思われているが、実際に…

読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第2編第1章

前の記事へ← →次の記事へ 最初の記事へ← 今回読んでいく箇所は『働くものから見るものへ』と『一般者の自覚的体系』という西田哲学で最も難解と言われる部分を論じた箇所である。西田の足跡をそのまま辿るというアプローチ方法を採用していることもあって、…

読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第1編第3章②103-134頁

前の記事へ← →次の記事へ 最初の記事へ← 第1編第3章では『意識の問題』と『芸術と道徳』が読解されるわけだが、このメモ書きで取り上げるのは後者を扱った103-134頁にかけての部分である。 この頃の柳田の文章にも西田同様「~でなければならない」が頻出す…

読書メモ:西田幾多郎『善の研究』(1911年)序文+第1編第1章

→次の記事へ 私は京都学派の哲学に関心を持ったのは田辺元の「死の哲学」に惹かれてのことであり、最近になるまで西田幾多郎の哲学にはあまり魅力を感じなかった。それもあって、西田のテクストを直接読んだ経験は乏しい。自力で『善の研究』と『思索と体験…

読書メモ:田辺元「人間学の立場」(1931年)②第4節~第5節

①へ← 「京都学派の哲学と人間学」というテーマを考える際に必読の論文であり、「種の論理」以前・以後の思索の変化を追う上でも重要な論文であるため、メモを取りながら読むことにした。今回参照したバージョンは『田邊元全集』の第4巻に収録されているもの…

読書メモ:上山春平「絶対無の探究」(1970年)②第3節~第5節

前の記事← 収録されている作品の関係上、上山の解説は『一般者の自覚的体系』までに留まっているが、可能な限りわかりやすく解説しているのが印象に残る。高坂正顕の西田哲学論と同じくらいの平明さがあるように思う。 第3節:西田の思想形成(33-56頁) 『善…

読書メモ:上山春平「絶対無の探究」(1970年)①第1節~第2節

→次の記事 上山春平は新京都学派と呼ばれるグループに属する思想家で、学際的な研究を通して独自の文明論・比較文化論に基づく思想を構築したことで知られる(その「独自の文明論・比較文化論」をどう評価すべきかという重大かつ厄介な問題が存在するわけだ…

読書メモ:田辺元「人間学の立場」(1931年)①第1節~第3節

→次の記事 「京都学派の哲学と人間学」というテーマを考える際に必読の論文であり、「種の論理」以前・以後の思索の変化を追う上でも重要な論文であるため、メモを取りながら読むことにした。今回参照したバージョンは『田邊元全集』の第4巻に収録されている…

読書メモ:下村寅太郎「田邊哲学の発展とその性格」(1952年)

下村寅太郎の論文「田邊哲学の発展とその性格」は『田邊哲学』(弘文堂、1952年)に収録され、『下村寅太郎著作集』の第12巻にも収められている。今回読解したのは後者のバージョンである。この論文には下村が師匠である田辺元の哲学のどのような点を高く評…

読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第1編第3章①79-103頁

前の記事へ← →次の記事へ最初の記事へ 第1編第3章では『意識の問題』と『芸術と道徳』が読解されるわけだが、このメモ書きで取り上げるのは前者を扱った79-103頁にかけての部分である。ここまで読んできて分かったことだが、柳田独自の考えは専ら注に示され…

読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第1編第2章

前の記事へ← →次の記事へ最初の記事へ← 柳田は西田哲学の根底に「実践的生命の躍動」があり、その哲学全体が実践哲学であると主張するわけだが(緒言を参照)、第1編第2章で扱われる『自覚に於ける直観と反省』は価値と存在、事実と意味がどのように結びつくの…

読書メモ:長谷正當「絶対自由意志と象徴の世界―ベルクソンから見た西田哲学の位置づけ」(1994年)

現在、私は柳田謙十郎の『実践哲学としての西田哲学』(1939年)を読み進めており、『自覚に於ける直観と反省』を扱う章に入っている。しかし、同書は西田自身が「悪戦苦闘のドキュメント」と述べていることからも分かるように、西田の著述の中でも論述が錯…

読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第1編第1章② 26-39頁

前の記事← →次の記事最初の記事へ 第1編:自覚的意志の倫理 第1章:西田哲学の発祥(11-39) 後期の西田哲学から見た純粋経験論の要点 4:実在の主意主義的把握は後期の西田哲学の方法的中核をなす弁証法を必然の帰結としてもたらした(26-29) 『善の研究』にお…

読書メモ:武藤一雄『宗教哲学』(1955年)第1章第4節~第7節

前回の記事← 宗教は超越的でありつつも、社会を変革していくことをその本質としており、保守性の発現は宗教にとって頽落であることが論じられている。 第1章:宗教とマルクス主義 第4節:宗教の保守性ということについて(12-14頁) 宗教が主体的な人間の心情…

読書メモ:武藤一雄『宗教哲学』(1955年)序~第1章第3節

→次の記事 以前、武藤一雄を取り上げた際、「古書市場に流通していない武藤の処女作を除き、その著作を『神学と宗教哲学の間』から順を追って読んでいきたい」という趣旨のことを宣言したが、処女作と『神学と宗教哲学の間』の間にもう1冊本が出版されていた…

読書メモ:上田閑照「西田幾多郎―「あの戦争」と「日本文化の問題」」(1995年)

2021年の今ではもうそういう人はいないか、いたとしてもごく少数になっていると思われるが、ある時期まで、西田幾多郎及びその哲学を肯定的に論じるということ自体に嫌悪感を抱いていた人が存在していたと聞く。彼/彼女らは西田を許されざる戦争協力者とみな…

読書メモ:武藤一雄『神学と宗教哲学の間』(1961年)序+第1章序論

何故武藤一雄を取り上げるのか 武藤一雄(1913年-1995年)は日本のキルケゴール研究やティリッヒ研究に大きな足跡を残した人物として知られるが、彼にはもう一つの顔がある。それは京都学派の流れをくむ神学者・宗教哲学者という顔である。武藤の指導教官は…

読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第1編第1章① 11-26頁

前の記事← →次の記事 第1編:自覚的意志の倫理 第1章:西田哲学の発祥(11-39) 「数十年にわたる長き哲学的思索の過程を通じて、わが西田哲学の前身の歩みは一瞬として停止する時をもたなかった。一つの論文の出るごとに新たなる視野の展望が開かれ、一つの著…

読書メモ:三宅剛一『学の形成と自然的世界』(1940年)①序(1-4)

近頃、私は京都学派の哲学を読解することに対する意欲を失いつつあるので(別の問題に対する関心が高まったためである)、読書メモを作成・公開することで少しでも意欲を取り戻したい。読書メモという体裁を取るため、私以外の人間の役に立つかどうかは分か…

「種の論理」VS「場所の論理」(メモ)

Twitterにメモしようと思ったが、長くなったのでここにメモしておく。 参考:田辺元と務台理作の論争に関する年表(筆者作成) 田辺元は論文「西田先生の教を仰ぐ」(1930年)を発表した後、師と仰いでいた西田幾多郎の哲学に対する対決姿勢を鮮明にしていく…

究極の教育原理としての実存協同(メモ)

田辺元は「死の哲学」の梗概として執筆した論文「メメント モリ」(1958)の中で『碧巌録』を参照しつつ、実存協同を以下のように説明している。 「師の愛を通じて自ら真実を悟得した弟子は、それに感謝する限り、当然に、自ら悟り得た真実を報謝して、更に…

下村寅太郎の3つの顔 (メモ)

京都学派の哲学に関する論文・研究書は毎年世に出ているわけだが、下村寅太郎に関する研究は一向に進む気配がない。2016年には「下村寅太郎という謎」と題された論文が発表されたわけだが、2019年の今も、下村は謎の存在として君臨し続けているように思う。…

森昭の教育哲学と京都学派の哲学①(メモ)

最近、筆者のTLに京都学派と教育学の関係についてのツイートが流れてくるようになった。この問題に関心を持つ人が少なからずいるようなので、2年前に作成したメモを公開する次第である。(タイトルには①とつけたが、②以降が出るかどうかはまだはっきりしない…

下村寅太郎は京都学派をどう理解していたか (メモ)

念のために前置きしておくが、このメモ書きは「下村寅太郎が言うように京都学派を理解すべきだ」などと主張するものではない。 哲学における京都学派の定義は大きく分けて2つある(藤田(2009)などを参照のこと)。1つ目は京都学派を西田幾多郎・田辺元を中心…

覚書「田辺元と南原繁」1

田辺元と南原繁という組み合わせは奇異に映るであろうから、この2人を取り上げる必要について説明したいと思う。その理由は2つある。①南原繁は「種の論理」の形成に大きな影響を与えていることと、②田辺元をはじめとする京都学派の哲学者(この一連の覚書で…

下村寅太郎の「数学への歴史」に対する疑問(メモ)

いつものように、Twitterにメモしようと思ったのだが、予想外に長くなりそうなのでここにメモしておくことにする。 下村寅太郎は数理哲学者として研究者のキャリアをスタートさせた。その際、師匠の田辺と同様、数学に出てくる諸概念を哲学的に基礎付けてい…

覚書「田辺元と南原繁」 文献一覧

本来、出典を示す際には(著者の名字(参照したテクストの出版年:頁数))とすべきだが、この覚書では、田辺と南原のテクストを多数参照するため、それをやると(田辺(1964q:○○))などという表記になってしまい、どの文献を参照しているのか一目で分からなくな…

南原繁と木村素衛のフィヒテ論に関する年表

去年の12月、ある年長者の方から「南原繁(1889-1974)と木村素衛(1895-1946)はフィヒテの影響を強く受けたという共通項を有しているわけだが、両者の違いはどこにあるか」という問いを頂戴した。筆者としてもこの問いに答えたいところではあるが、素人が…