哲学
太平洋戦争で日本の敗色が濃厚になってきた頃、田辺元は現実に対する自らの哲学の行き詰まりを痛感し、最終的には懺悔道という独自の哲学を構築するに至った。懺悔道は従来の西洋哲学同様、絶対知への到達を永遠の目標としつつも、従来の哲学とは質を異にし…
中村雄二郎は1967年に中公新書の1冊として『哲学入門 生き方の確実な基礎』を世に出した。この時期の中村は制度論と情念論の統合というテーマと格闘していたが、まだ解決の糸口を見つけられていなかった*1。『哲学入門』は中村にとってのいわば「悪戦苦闘の…
前の記事へ← →次の記事へ 最初の記事へ← 中村雄二郎は「日本の哲学のあり方」について考察する文章を書いている。その時々の思想の流行を踏まえながら考察がなされているため、思想史的には興味深い文章に仕上がっているが、どれを読んでも批判点や結論にさ…
前の記事へ← 前回に引き続いて、西田幾多郎の『善の研究』を読み進めていきたい。今回も『西田幾多郎全集』新版第1巻に収録されているバージョンを参照した。 第1編第2章:思惟(16-24頁) 判断は独立した二つの表象を結合するものだと思われているが、実際に…
前の記事へ← →次の記事へ 最初の記事へ 今回取り上げる第1編第3章は哲学は精神分析の知見をどのように取り込むべきなのかという話題が扱われている。例によって、今回も『中村雄二郎著作集』第1巻に収録されているバージョンを参照した。 ちなみに、河合隼雄…
→次の記事へ 私は京都学派の哲学に関心を持ったのは田辺元の「死の哲学」に惹かれてのことであり、最近になるまで西田幾多郎の哲学にはあまり魅力を感じなかった。それもあって、西田のテクストを直接読んだ経験は乏しい。自力で『善の研究』と『思索と体験…
何故武藤一雄を取り上げるのか 武藤一雄(1913年-1995年)は日本のキルケゴール研究やティリッヒ研究に大きな足跡を残した人物として知られるが、彼にはもう一つの顔がある。それは京都学派の流れをくむ神学者・宗教哲学者という顔である。武藤の指導教官は…
中村雄二郎の論文「制度論的視角と日本型思想」は『思想』(1962年7月号)に掲載され、その後『近代日本における制度と思想』(1967年)の第1章に収録された。今回は、『中村雄二郎著作集』第二期10巻に収録されているバージョンを読んでメモを作成した。つ…
前回へのリンク← →次回へのリンク第1回へのリンク 第1章:プラトン以前の数学的宇宙論 第1節:ピタゴラス派の数学(1-9) 古代ギリシアにおける学としての数学と近代におけるそれとは学としての性格が異なる。タレスとその弟子たちも幾何学に関心を持っていた…
前回へのリンク← →次回へのリンク 数学と哲学(4-) 三宅は数学の基礎を哲学的に考察する中で、無限への関係から世界を考えるようになり、学の問題もそういう方面から考えていくようになった。所謂「数学の基礎危機」は無限の問題を中心に発生した。「無限多の…
世間で鎌倉新仏教と総称される教派の開祖のうち、親鸞と道元に関する哲学的考察は途切れなく出続けている。しかし、その他の開祖の思想が取り上げられることは稀であるように思う。このメモ書きで取り上げる一遍もその稀なグループに含まれる*1。この度、一…
Twitterにメモしようと思ったが、長くなったのでここにメモしておく。 参考:田辺元と務台理作の論争に関する年表(筆者作成) 田辺元は論文「西田先生の教を仰ぐ」(1930年)を発表した後、師と仰いでいた西田幾多郎の哲学に対する対決姿勢を鮮明にしていく…
去年作成したメモ書きをここに公開する。作成者は門外漢であるため、抜けている文献も少なからずあるだろうが、それを承知の上で利用して頂きたい。なお、文献の中で、ネット上で読めるものに関してはリンクを張っておいた。 三宅の著作 三宅剛一(1940)『…
田辺元は「死の哲学」の梗概として執筆した論文「メメント モリ」(1958)の中で『碧巌録』を参照しつつ、実存協同を以下のように説明している。 「師の愛を通じて自ら真実を悟得した弟子は、それに感謝する限り、当然に、自ら悟り得た真実を報謝して、更に…
1995年4月12日、辻村公一(田辺元と高山岩男の弟子。ハイデガーやドイツ観念論の研究で知られる)は日本学士院の総会で同年1月22日に亡くなった下村寅太郎の追悼講演を行った。同講演は下村について考える上で興味深いものを提示しているので、それについて…
京都学派の哲学に関する論文・研究書は毎年世に出ているわけだが、下村寅太郎に関する研究は一向に進む気配がない。2016年には「下村寅太郎という謎」と題された論文が発表されたわけだが、2019年の今も、下村は謎の存在として君臨し続けているように思う。…
最近、筆者のTLに京都学派と教育学の関係についてのツイートが流れてくるようになった。この問題に関心を持つ人が少なからずいるようなので、2年前に作成したメモを公開する次第である。(タイトルには①とつけたが、②以降が出るかどうかはまだはっきりしない…
予め断っておくが、このメモ書きは柳田謙十郎の転向の是非を検討したり、転向に思想上の内的必然性があったか否かを検証したりするものではない。 柳田謙十郎の転向 1939年、柳田謙十郎は『実践哲学としての西田哲学』を公刊したが、その中で以下のようなこ…
念のために前置きしておくが、このメモ書きは「下村寅太郎が言うように京都学派を理解すべきだ」などと主張するものではない。 哲学における京都学派の定義は大きく分けて2つある(藤田(2009)などを参照のこと)。1つ目は京都学派を西田幾多郎・田辺元を中心…
田辺元の「死の哲学」と詩の関係を考察する場合、ヴァレリー論やマラルメ論が頻繁に取り上げられるわけだが、他の途もいくつか存在する。このメモ書きでは田辺の「死の哲学」と高村光太郎の『智恵子抄』の関係について書いてみようと思う。①では両者の関係に…
田辺元と南原繁という組み合わせは奇異に映るであろうから、この2人を取り上げる必要について説明したいと思う。その理由は2つある。①南原繁は「種の論理」の形成に大きな影響を与えていることと、②田辺元をはじめとする京都学派の哲学者(この一連の覚書で…
京都学派の哲学者とジョン・デューイの関係と聞いたなら、西田幾多郎がデューイの『論理学』を読みたいと切望していたことや高山岩男が「呼応の原理」を構築する際にデューイの探求の論理を参照したことが真っ先に思い浮かぶだろうが、実は、田辺元も1回だけ…
このメモ書きは昨年の夏に作成したものである。「井筒が田辺元の哲学を論じているか箇所はないか」と思って『井筒俊彦全集』の頁をめくったが、田辺に関する記述は見つからなかった。ただ、井筒俊彦が西谷啓治と下村寅太郎の仕事をどう評価していたのかが分…
このメモ書きは去年の夏頃に作成したものである。 下村寅太郎は『哲学研究』の田辺元博士追悼号(1964年)に論文「田邊哲学における数理哲学の地位について ―『数理の歴史主義展開』を中心として―」を寄稿した(以下では、この論文を下村論文と略記する)。…
このメモは去年の7月半ばに作成したものである。 田辺元は独自の哲学的立場を打ち立てる際に、頻繁に数学を参照した。科学を論じる際に数学に言及することは勿論、社会や宗教・芸術の問題を論じるときにも数学が参照される。その中でも、特に頻繁に言及され…
高橋里美についての日本語文献の一覧を作成したので、ここに公開する次第である。門外漢が作成したので、取りこぼしてしまったものも少なからずあると思う。その点に留意して使って頂きたい。なお、高橋に関する研究は英語圏でも行われている(例:Makoto Oz…
本来、出典を示す際には(著者の名字(参照したテクストの出版年:頁数))とすべきだが、この覚書では、田辺と南原のテクストを多数参照するため、それをやると(田辺(1964q:○○))などという表記になってしまい、どの文献を参照しているのか一目で分からなくな…
一昨年、とある授業でハイデガーの講演「技術への問い」を読み、それに関するレポートの提出を求められた。その際、田辺元の「死の哲学」の立場からハイデガーの技術論を批判しようと思い付き、この抜き書きを作成した。 抜き書きを作成した段階では気が付か…
去年の12月、ある年長者の方から「南原繁(1889-1974)と木村素衛(1895-1946)はフィヒテの影響を強く受けたという共通項を有しているわけだが、両者の違いはどこにあるか」という問いを頂戴した。筆者としてもこの問いに答えたいところではあるが、素人が…
1949年5月15日、民俗学者の柳田國男は思想史家の家永三郎と対談した際に以下のようなことを述べたという(家永(1998:471))。 家永 先生は現代の哲学者の著述をお読みになるか。柳田 読むが、大てい途中で投げてしまふ。西田幾多郎氏の論文などついて行けな…