読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第2編第1章

前の記事へ← →次の記事へ 最初の記事へ← 今回読んでいく箇所は『働くものから見るものへ』と『一般者の自覚的体系』という西田哲学で最も難解と言われる部分を論じた箇所である。西田の足跡をそのまま辿るというアプローチ方法を採用していることもあって、…

読書メモ:中村雄二郎『現代情念論』(1962年)第1編第2章

前の記事へ← →次の記事へ 中村雄二郎の『現代情念論』に関しては重要だと思われる章だけメモを取りながら読んでいくことにした。今回取り上げる第1編第2章はアランとサルトルの情念論を検討した箇所であり、参照したバージョンは『中村雄二郎著作集』第1巻に…

読書メモ:野家啓一「歴史の中の身体 ―西田哲学と現象学―」(1993年)

今回取り上げる野家啓一氏の論文「歴史の中の身体 ―西田哲学と現象学―」は雑誌『現代思想』の1993年1月号で発表された後、『没後五十年記念論文集 西田哲学』(岩波書店、1994年)に収録された。今回参照したのは後者のバージョンである。 第1節:行為と身体…

読書メモ:クラウス・リーゼンフーバー「純粋経験と絶対意志」(1994年)

1994年、故上田閑照氏が編者となって『没後五十年記念論文集 西田哲学』が岩波書店から出版された。大橋良介氏、野家啓一氏、故新田義弘氏ら第一線級の研究者が寄稿していることもあり、2021年の今も読まれるべき価値のある論考が多数収録されている。 今回…

読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第1編第3章②103-134頁

前の記事へ← →次の記事へ 最初の記事へ← 第1編第3章では『意識の問題』と『芸術と道徳』が読解されるわけだが、このメモ書きで取り上げるのは後者を扱った103-134頁にかけての部分である。 この頃の柳田の文章にも西田同様「~でなければならない」が頻出す…

読書メモ:西田幾多郎『善の研究』(1911年)序文+第1編第1章

→次の記事へ 私は京都学派の哲学に関心を持ったのは田辺元の「死の哲学」に惹かれてのことであり、最近になるまで西田幾多郎の哲学にはあまり魅力を感じなかった。それもあって、西田のテクストを直接読んだ経験は乏しい。自力で『善の研究』と『思索と体験…

読書メモ:中村雄二郎『現代情念論』(1962年)第1編第1章+著作集第1巻解説①(1993年)

→次の記事へ 中村雄二郎はパスカル研究者としてキャリアを出発させた後、すぐに独自の哲学の構築に乗り出している。そんな中村が最初に取り扱ったテーマは情念論であった。2021年の今であれば、哲学者が感情(情念)の問題を扱っても特に不可解なことではな…

映画感想:『オハナ』(2021年)

久しぶりに映画を見たのだが、その映画の出来が良かったので、ここに感想をまとめることにした。その映画とはNetflixで配信されている『オハナ』(原題:Finding 'Ohana)である。子供向けの映画として製作されたようだが、大人でも楽しめる出来に仕上がって…

読書メモ:田辺元「人間学の立場」(1931年)②第4節~第5節

①へ← 「京都学派の哲学と人間学」というテーマを考える際に必読の論文であり、「種の論理」以前・以後の思索の変化を追う上でも重要な論文であるため、メモを取りながら読むことにした。今回参照したバージョンは『田邊元全集』の第4巻に収録されているもの…

読書メモ:上山春平「絶対無の探究」(1970年)②第3節~第5節

前の記事← 収録されている作品の関係上、上山の解説は『一般者の自覚的体系』までに留まっているが、可能な限りわかりやすく解説しているのが印象に残る。高坂正顕の西田哲学論と同じくらいの平明さがあるように思う。 第3節:西田の思想形成(33-56頁) 『善…

読書メモ:上山春平「絶対無の探究」(1970年)①第1節~第2節

→次の記事 上山春平は新京都学派と呼ばれるグループに属する思想家で、学際的な研究を通して独自の文明論・比較文化論に基づく思想を構築したことで知られる(その「独自の文明論・比較文化論」をどう評価すべきかという重大かつ厄介な問題が存在するわけだ…

読書メモ:田辺元「人間学の立場」(1931年)①第1節~第3節

→次の記事 「京都学派の哲学と人間学」というテーマを考える際に必読の論文であり、「種の論理」以前・以後の思索の変化を追う上でも重要な論文であるため、メモを取りながら読むことにした。今回参照したバージョンは『田邊元全集』の第4巻に収録されている…

読書メモ:下村寅太郎「田邊哲学の発展とその性格」(1952年)

下村寅太郎の論文「田邊哲学の発展とその性格」は『田邊哲学』(弘文堂、1952年)に収録され、『下村寅太郎著作集』の第12巻にも収められている。今回読解したのは後者のバージョンである。この論文には下村が師匠である田辺元の哲学のどのような点を高く評…

読書メモ:柳田謙十郎「西田哲学の超克 ―わが思想は哲学の根柢を求めて遍歴する―」(1950年)

戦前、柳田謙十郎は「著者はその生命のつづく限り(西田の著作を)更に深く読み直し考え直すことによって一年一年とその理解を深めてゆくことを以て自己の生涯の課題として行き度い」とまで述べていたが*1、いつの頃からか西田哲学に飽き足らぬ物を感じるよ…

読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第1編第3章①79-103頁

前の記事へ← →次の記事へ最初の記事へ 第1編第3章では『意識の問題』と『芸術と道徳』が読解されるわけだが、このメモ書きで取り上げるのは前者を扱った79-103頁にかけての部分である。ここまで読んできて分かったことだが、柳田独自の考えは専ら注に示され…

読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第1編第2章

前の記事へ← →次の記事へ最初の記事へ← 柳田は西田哲学の根底に「実践的生命の躍動」があり、その哲学全体が実践哲学であると主張するわけだが(緒言を参照)、第1編第2章で扱われる『自覚に於ける直観と反省』は価値と存在、事実と意味がどのように結びつくの…

読書メモ:長谷正當「絶対自由意志と象徴の世界―ベルクソンから見た西田哲学の位置づけ」(1994年)

現在、私は柳田謙十郎の『実践哲学としての西田哲学』(1939年)を読み進めており、『自覚に於ける直観と反省』を扱う章に入っている。しかし、同書は西田自身が「悪戦苦闘のドキュメント」と述べていることからも分かるように、西田の著述の中でも論述が錯…

読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第1編第1章② 26-39頁

前の記事← →次の記事最初の記事へ 第1編:自覚的意志の倫理 第1章:西田哲学の発祥(11-39) 後期の西田哲学から見た純粋経験論の要点 4:実在の主意主義的把握は後期の西田哲学の方法的中核をなす弁証法を必然の帰結としてもたらした(26-29) 『善の研究』にお…

読書メモ:中村雄二郎「言葉・表現・思想」(1968年)

1968年は中村雄二郎にとって節目の年になったと思われる。当時、中村はフランスに滞在しており所謂「五月危機」をその目で直接見ることになったというのもあるが、それだけではない。1968年は中村が制度論から言語論へと主題を移し、後年の「演劇的知」へと…

読書メモ:武藤一雄『宗教哲学』(1955年)第1章第4節~第7節

前回の記事← 宗教は超越的でありつつも、社会を変革していくことをその本質としており、保守性の発現は宗教にとって頽落であることが論じられている。 第1章:宗教とマルクス主義 第4節:宗教の保守性ということについて(12-14頁) 宗教が主体的な人間の心情…

読書メモ:武藤一雄『宗教哲学』(1955年)序~第1章第3節

→次の記事 以前、武藤一雄を取り上げた際、「古書市場に流通していない武藤の処女作を除き、その著作を『神学と宗教哲学の間』から順を追って読んでいきたい」という趣旨のことを宣言したが、処女作と『神学と宗教哲学の間』の間にもう1冊本が出版されていた…

読書メモ:中村雄二郎『西田幾多郎』(1983年)第2章

←前の記事 河合隼雄の日本人論を手引きに西田の自己概念を読解するという試みには首をかしげざるを得ないし、そもそも、中村はユング=河合の意識モデルに期待しすぎている―例えば、中村はユング=河合の意識モデルが近代科学誕生の謎を解明するのに役立つと…

読書メモ:上田閑照「西田幾多郎―「あの戦争」と「日本文化の問題」」(1995年)

2021年の今ではもうそういう人はいないか、いたとしてもごく少数になっていると思われるが、ある時期まで、西田幾多郎及びその哲学を肯定的に論じるということ自体に嫌悪感を抱いていた人が存在していたと聞く。彼/彼女らは西田を許されざる戦争協力者とみな…

読書メモ:武藤一雄『神学と宗教哲学の間』(1961年)序+第1章序論

何故武藤一雄を取り上げるのか 武藤一雄(1913年-1995年)は日本のキルケゴール研究やティリッヒ研究に大きな足跡を残した人物として知られるが、彼にはもう一つの顔がある。それは京都学派の流れをくむ神学者・宗教哲学者という顔である。武藤の指導教官は…

読書メモ:中村雄二郎「ナカエニスムと西田幾多郎」(1983年)

中村雄二郎は『西田幾多郎』(1983年)の第1章で中江兆民の「我日本古より今に至る迄哲学無し」という言葉を持ち出した。明治以前に日本哲学があったのかという問い自体はありふれているため、中村がその文脈で中江に言及したことには特に違和感を覚えない。…

読書メモ:中村雄二郎『西田幾多郎』(1983年)第1章

→次の記事 中村雄二郎は「問題群としての西田幾多郎」が好評を博したことを受けて、問題群という手法を使って西田哲学を読み解く作業を更に進めた。そのまとまった成果として最初に世に出たのが『西田幾多郎』(1983年)である。このメモを作るに当たって久…

読書メモ:中村雄二郎「西田幾多郎と小林秀雄」(1987年)

引き続き中村雄二郎の西田哲学論を読んでいくわけだが、今回取り上げる論文は「西田幾多郎と小林秀雄」である。同論文は元々フランス語で執筆されたものであり、1986年11月18日にソルボンヌで行われた講演で読み上げられた。その後、『新潮』の1987年2月号に…

読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第1編第1章① 11-26頁

前の記事← →次の記事 第1編:自覚的意志の倫理 第1章:西田哲学の発祥(11-39) 「数十年にわたる長き哲学的思索の過程を通じて、わが西田哲学の前身の歩みは一瞬として停止する時をもたなかった。一つの論文の出るごとに新たなる視野の展望が開かれ、一つの著…

読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)序+緒言

→次の記事 西田哲学研究の歴史を振り返る上で、柳田謙十郎ほど扱いに困る人物はいないと思われる。戦時中、自らも戦争を称揚したにも拘らず、戦後しばらくして突然「西田哲学の超克」を宣言し、京都学派の戦争責任を糾弾する側に回った。呆れた所行としかい…

読書メモ:納富信留ら編『世界哲学史1―古代1 知恵から愛知へ』(2020年)第2章から最後まで

←前回の記事 次回の記事→ 第2章以降にも「世界哲学史」の総論を理解する上で重要な箇所がいくつかあったので、そこを抜粋しておく。 第3章:旧約聖書とユダヤ教における世界と魂(髙井啓介) 「旧約聖書に描かれる「世界」(「天と地」)はヘレニズム的なコ…