田辺元と森昭 二度目の懺悔道(メモ)

以下のメモ書きは一昨年の冬に作成したものです。公開に当たり、文章表現の一部に手を加えており、注記を付け加えています。
後期の田辺哲学の研究において、懺悔道とはどのような哲学的立場かという問題は頻繁に論じられている。その問題を解明するための新しい手掛かりを発見したので、メモしておく次第である。
 田辺は『懺悔道としての哲学』(1946)の序文において以下のように述べている。
「既成の哲学的方法を提げて懺悔の解釈をする現象学乃至生哲学の如きものではなく、あらゆる哲学の立場と方法とが無力として掃蕩せられるその廃墟に復興せられるのが懺悔道である。かのデカルトの方法的懐疑よりも一層徹底せる哲学的掃蕩の方法である」(田辺(1963a:8))
 この引用文を見た者は田辺が従来拠っていた立場をも捨て、別の全く新しい立場に移行したと思うはずである。ところが、実際はそうなっていない。戦前の田辺は絶対媒介の弁証法に立脚していたが、懺悔道以降の田辺もまた絶対媒介の弁証法に立脚しているのである。また、懺悔道への移行によって、田辺が戦前に展開していた種の論理が放棄されたということもない。それどころか、種の論理は懺悔道によって「発展」し、田辺は種の論理の「根本構造に対する確信を強め」たのである(田辺(1963b:255))。
 勿論、懺悔道以前・以後で田辺哲学に変化が生じたのは間違いない。しかし、田辺は既成の哲学の絶対否定を遂行したと標榜しているにも拘わらず、田辺哲学の根幹となっていた部分はそのまま残っている。ここに至り、既成の哲学の立場を徹底的に懐疑・否定したにも拘わらず、何故田辺哲学の根幹は維持されたのかという問題が出てくる。田辺はシェリングハイデガー西田幾多郎など自分以外の哲学者の立場を徹底的に批判したが、自分の哲学的立場に対しては批判を徹底できなかったのではないかという疑念すら湧いてくる。
この問題を解決するには、既成の哲学を絶対否定するとは何を意味するのかを明確にする必要がある。そのためには田辺のテクストを読み込んでいく必要があるわけだが、手掛かりは他にもある。実は、日本の哲学の歴史において、既成の哲学的立場の絶対否定を遂行した人物が田辺以外にもう一人いる。それこそが森昭である。田辺の絶対否定と森の絶対否定を比較することで、前者の特徴が浮き彫りになるのではないか

 ※森昭は田辺の弟子であり、京都学派に属する哲学者であることは間違いないのだが、京都学派の哲学に関する研究論文で森の名前を見かけることはほとんどないように思われる。また、このNoteを執筆した時点で、京都学派アーカイブに森の名前はない(https://kyoto-gakuha.org/phil/index.php)。森は『田邊元全集』第8巻の月報に田辺から受け取った書簡の一部を掲載しているが、田辺研究でそれに触れられることはまずない。基本的に、森は教育人間学の領域で参照される人物である。以上を踏まえるに、このnoteではじめて森の名前を知った人が多いと思われる。そういう人は森の日本語版Wikipedia(京都学派の哲学者の中でも、内容が充実している方である)か『日本の教育人間学』(玉川大学出版部,1997年)所収の田中毎実氏の論考を参照して頂きたい。

ところで、田辺が保管していた書簡は没後に下村寅太郎の手に渡り、現在は京都大学が保管しているのだという。森から受け取った書簡がその中にあれば、田辺と森の比較に資するはずである。一方、森が保管していた田辺からの書簡が今どうなっているのかは把握できていない。森が亡くなってから40年弱が経過しているため、散逸してしまった可能性もある。
 ※「既存の哲学的立場を徹底的に批判し、新しい立場に移行したという条件なら、務台理作も該当するはずである。それなのに何故田辺と務台を比較しないのか」という疑問が浮かぶ人もいるかもしれないが、務台の転向は教え子の自死に触発されたものであり、懺悔道に触発されたものではないからである。ただ、戦後の田辺と務台は共に実存哲学とマルクス主義の統合を目指したという共通項を有するので、両者の比較研究はどこかでなされなければならないだろうという気はする。
森は1961年に800頁を超える大著『教育人間学』を世に送り出した。同作は教育人間学だけではなく、諸科学の成果を総動員して「人間の生成」とは何かを考究した著作である。極めて体系的な著作であるが、その末尾に以下のようなことを書き記している。
「田辺先生を「懺悔道としての哲学」にいたらしめた誠実なる倫理的体験、これを究極の自覚にまでつきつめた厳しい思索は、われわれに「倫理」の限界を教えている。私は田辺先生の教えをまえにして、誠実なる反省・行為の足りなさを恥じ入らざるをえない。「人間生成論としての教育人間学」の企てさえも、先生の教えからの逃避であると言わなければならない。人間生成論の絶対否定こそが、真実の人間生成の道なのかもしれない。このような予感を私は持っている。」(森(1961:843-844))
 その後、森は予告通りに「人間生成論としての絶対否定」を遂行したが、森の死によって未完に終わってしまった。その成果が遺稿『人間形成原論』(1977年)である。

 ※田辺の弟子である唐木順三は『現代史への試み』(1947年)で教養主義批判を行ったが、それは田辺の種の論理や懺悔道に触発されたものであった。唐木は型の概念が田辺の懺悔道と相容れないことを理解していたが、それでもなお、敢えて型の概念を持ち出した。唐木は懺悔道に影響を受けながらも、森のように自分の理論を絶対否定しようとはしなかった。森と唐木の相違が何を意味するのかはまだ分からないが、興味深いことのように思われるので、一応書き残しておく。 


参考文献

田辺元(1963a(1946))『懺悔道としての哲学』,『田邊元全集』第9巻,3-269頁,筑摩書房
田辺元(1963b(1947))『種の論理の弁証法』,『田邊元全集』第9巻,253-372頁,筑摩書房
森昭(1961)『教育人間学 -人間生成としての教育-』,黎明書房