田辺元とカントの根元悪(メモ)

今年の1月にある先生から田辺元の哲学を考察する上で重要な問いを頂いたが(もしかすると、カントの哲学を考察する上でも重要かもしれない)、筆者にはこの問いに応答できる機会がもうないと思われるので、ここに公開することにした。
 
 田辺元は戦前に発表した種の論理に欠陥があったとして、それを以下のように総括した。
「当時私の思想に於ては、右の絶対媒介の原理たる無が、なお真に否定的に徹底せられず、矛盾の底に超越せしめらるるに至らずして、理性の同一性を脱却しなかった為に、私の始終批判しつつあったヘーゲルの合理主義に自ら転落し、彼の如く国家を絶対化して個人の自由をそれに同化する傾向を免れ得なかったのである。個人の自由を裏附ける根原悪と共に、国家にもその存在の底には根原悪が伏在し、それから離脱せしめられるためには、前者が倫理の矛盾、すなわちカントのいわゆる実践理性の二律背反、に死して蘇らしめらる悔改に於て、信仰の立場に進まなければならぬ如く、後者もまた、超越的なる神の歴史審判に随順し、懺悔しなければならぬという宗教的立場が、なお欠けて居た。」(田辺(1964:253-254)、強調は筆者。)
 戦前、田辺は国家を応現存在と規定し、絶対が現実の世界に現れ出たものとした。田辺には国家を神格化しようとする意図はなかったが、応現存在という規定を導入したばかりに、国家が限りなく絶対に近い存在(田辺は「擬制的絶対有」や「絶対的相対」と表現した)になってしまい、ヘーゲルの国家論と同じ欠点を抱えることになった。この欠点を克服すべく、田辺は「国家の根原悪」という概念を持ち出し、国家は絶対善たり得ない相対的な存在であることを強調するに至った。
 以上の事態に対して、その先生は次のような疑問を投げかけた。「根元悪という概念はカント由来のものである。しかし、カントにおける根元悪を個人に伏在するものであって、国家にも伏在するものではない。田辺は根元悪を国家にも伏在するものと主張しているが、それはカントの立場から見て逸脱ではあるまいか。また、仮に田辺の主張を受け入れるとしても、個人の根元悪と国家の根元悪は同じ性質のものなのかという疑問がある。少なくとも、田辺は両者の違いを明示していない。」
 勿論、「国家の根原悪」という概念を田辺の独創として高く評価することも可能であろう。しかし、その立場を取るにしても、カント哲学における根元悪と田辺哲学における根元悪を比較し、その違いを明確にする作業は誰かがやらなければならないだろうし、「個人の根元悪と国家の根元悪は同じ性質のものなのか」という疑問に対する自らの立場を明らかにすべきだと思われる。


文献

田辺元(1964(1947))『種の論理の弁証法』,『田邊元全集』第7巻,253-372頁,筑摩書房