田辺元によるハイデガーの技術論批判

一昨年、とある授業でハイデガーの講演「技術への問い」を読み、それに関するレポートの提出を求められた。その際、田辺元の「死の哲学」の立場からハイデガーの技術論を批判しようと思い付き、この抜き書きを作成した。
 抜き書きを作成した段階では気が付かなかったが、この抜き書きは田辺と唐木順三の科学観を比較する際にも使えるので、取り敢えずここに記録しておくことにした。

1:唐木順三宛て書簡(1955年1月7日)

  此頃、ハイデッガーの「思想とは何ぞ」を読んで、彼の真意は、道元の「仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふといふは、自己をわするるなり、自己をわするというふは、万法に証せらるるなり」に一致すべき筈であるのに、存在(自己)と存在者(万法)との絶対無に於ける転換的統一に徹せず、二元の一方に優越を認めんとするため動揺を免れないのではないかと感じました。小生は大兄のニヒリズム御追求が、アブソリュートニヒリズムへの突破であることを、ひそかに期待致すしだいです。たださういふディヤレクティクを媒介とする小生としては、ハイデッガーを始め哲学者の、科学技術観には、一致できませぬ。人間自滅の背理をもつて科学技術の追求を中止せしめ、それに代わるべき世界観でそれを置換へようとすることは、無効だと思ふものです。自滅も運命ならば致方ない。自滅してもなほ悔なく不安が無い立場を獲得しなければ、宗教は確立しないでせう。そこまで徹底しないで不安を逃れようとする間は、信仰とはいはれますまい。真に宗教が科学を超えるものならば、科学技術を往く所まで往かしめて、他からでなくそれ自身をして飜らしめるものでなければならぬと信ずるわけです(田辺(2004:352))。


2:唐木順三宛て書簡(1955年1月27日)

 此前、差上げた書簡に、ハイデッガーの技術思想につき不満を申上げましたが、その当時は今までに出た彼の論文、特に、Ü.d. Humanismusに述べられて居る所を、念頭に置いて認めたわけです。しかるにその後、昨年秋に公にされた彼の最近の論文集(Vorträge u. Austräge)を入手して見ますと、新しい技術論が出て居り、ニイチェに関する論文等と相俟つて、西欧形而上学がニイチェに行詰つて、それを打開すべきものとして「技術の時代」が始まりつつあるといふ考に接し、目を瞠らされました。今まで一般的にかういふ技術論に接したことなく、彼の真剣な努力と突破とを示すものと信じ、さすがと敬意を新にしました。ただ技術を終に芸術に帰属せしめる所は、以前従来の考を出ず、小生には同感できませぬが、新しい技術の思想には、感嘆を禁じ得ませぬ。この技術論、ニイチェ、西欧形而上学のBEAなる論理的関係を追及して、差当たり彼の技術論の哲学批判をやらうかと意図して居ります(田辺(2004:355-356))。
※「BEA」とは特殊(Besondere)・個別(Einzelne)・普遍Einzelne(Allgemeine)のことである。

3:「生の存在学か死の弁証法か」(1958年脱稿)

 科学に対する文化批判は現代の課題であるといわれる有様である。ところで私は、この批判が依然として、科学的思惟の依って立つ分析論の立場に終始して行われることが常であることを、慊らなく思わざるを得ないものである。その趣旨は、科学研究が人間の福祉増進という目的に反して人類の破滅という結果に立到らんとしつつあるのは、その研究の無反省無統制なる行過ぎのためであるから、この矛盾を反省して無制限なる進歩を抑え、研究に統制を加えて合目的なる調和を計るべきであるというのである。ハイデッガー教授もまたこのような立場を採り、統制調和の目的論的同一性を貫徹せんと欲せらるるものの如くである(田辺(2010:241-242)、強調は筆者)。
※田辺は強調部分の根拠としてハイデガーの「技術への問い」を挙げているが、当該講演の中に「科学技術の発展をコントロールすべきである」という主張はなかったはずである。
ただしその際、教授の根本思想に従い、存在者についての科学的思惟を一たび無の深淵に否定して、それを超える存在の思考、すなわちいわゆる本質的思考、の哲学の立場に立ち、、存在の恩恵に感謝して自己を犠牲にし、自若として捨離の高邁自由を確保するのが、歴史的人間の使命であるとせられることは、単なる常識ないし科学の立場に止まるところの見解と異なる、教授の哲学思想の特色であるというべきである。そこにエックハルト伝来の深きドイツ思想の息吹を感ずるのは、もとより私一人ではないと思う。しかし、翻って考えてみると、科学は哲学の立場からそれの研究発達を断念せしめ、いわゆる清貧の高貴に満足せしめることができるものであろうか疑なきを得ない。かかる統制を説く道徳的説教に依って科学が人間の自由に支配し得るものでないことは、今日の国際的原子力競争の含む矛盾が十分に証明するところではないか(田辺(2010:242))。


文献

田辺元唐木順三(2004)『田辺元唐木順三往復書簡』,筑摩書房
田辺元(2010(1962))「生の存在学か死の弁証法か」,藤田正勝編『死の哲学 田辺元哲学選Ⅳ』,221-392頁,岩波書店