田辺元の「死の哲学」における「切断」(メモ)

このメモは去年の7月半ばに作成したものである。
田辺元は独自の哲学的立場を打ち立てる際に、頻繁に数学を参照した。科学を論じる際に数学に言及することは勿論、社会や宗教・芸術の問題を論じるときにも数学が参照される。その中でも、特に頻繁に言及されるのが、デデキントの切断である。切断は田辺にとって「一生を貫く問題」であったという(田辺(2010:396))。
 田辺は論文「論理の社会存在論的構造」(1936年)で切断を独自の術語として使用し始め、最晩年の「死の哲学」まで使い続けた。その25年の間に、切断概念の意味する内容がどう変遷したのか。これは考究するに値する問題だと思われるが、先行研究において切断が扱われるとき、専ら種の論理の時期(つまり、切断概念の導入時期)に注目した考察が行われている。懺悔道以降に切断概念がどうなったかを考察したものはほとんどないので、その時期に焦点を当てて考察することが求められているように思う。
 別のテーマについて調べ物をしたとき、偶然にも、田辺が切断について新しい理解を得たと宣言している箇所を発見した。私自身、田辺の新発見が彼の哲学に劇的な変化をもたらしたのか、それとも些細な変化をもたらすに過ぎなかったのか判断できていないが、取り敢えずここに記録しておく次第である。

田辺は1953年11月に『続北軽井沢特別講義』と題した3日間の講義を行い、ハイデガーの哲学の変遷を概観した。冒頭、ハイデガーの教授資格論文に言及した後、田辺は「最近またデデキントの切断について考えてみたが、今まで知らなかったことは次の通りである。それにはスコトゥスとトマスとの対決が大きな道しるべになった」と述べ(田辺(1964:357))、以下のような考察を続けた。なお、田辺が言う「スコトゥスとトマスとの対決」とは、個体がどのようにして生じるかという問題をめぐる両者の対立のことを指す。

 「トマスの説いた同一性の立場で、対立するものが触れ合い、あれでもあればこれでもあるということは、詩と数学ではできる。それはIdeeの立場ではできる。ヘーゲル的な綜合がそこではできる。詩と数学とは共にIdeeの立場に立つ。デデキントの切断もかかる意味で触れ合うものを示す。それはカントールのGrenzeで考える行き方より具体的であり、深いものと言える。切断の考え方は両方からつめてくるところに成り立つ。そこに綜合がある。カントールデデキントの二人の考えは数学では等価である。極限で考えるとき、極限はこちらからもあちらからも目標となりうる。相関的なGrenzeがあれば、切断は不要である。切断は右と言えば左、左と言えば右というように、両者は反対を自分の中に含む。そのような弁証法的な考え方が切断にはある。切断というとき、両方からつめて行っても実際は切断されない。到達されないのである。切断は切断として自己自身を超えた自己否定性をもつならば、右から左へ、左から右へと転ずる箇所がなければならない。√2の動揺するところでは切断はない。数学者はその転換の箇所を瞬間的に捉えて切断と言う」(田辺(1953:362))

 「無理数の存在性とは何か。実際には至り得ない無理数の存在性とはいったい何か。芸術家はこの転換を捉えて、すべて作品として示す。肉体と精神とが制約し合い、両者の相転換する面に個体がある。物体的に考えれば、肉体はいくらでも部分に分けられる。それでは個体ではない。肉体を離れた精神も個体ではない。天使無体というように、肉体なくして個性の区別は存しない。詩人・画家の描くものは個性がある。そこには置き換えられないDiesheit(此者性)がある。
 それに反して、反対の方の現実の世界、数学に対する物理の世界、芸術に対する歴史の世界、かかる世界には綜合の具体的区別を指摘できない。話しながらつなぐものは歴史の上では点的に捉えられない。個別であって、永遠・普遍を持つもの、かかるものは現実の世界にはない。」(田辺(1953:362),括弧内は筆者が付け加えた)
 「宗教では神への方向はSymbolで実例的に示している(神話・伝説)。それは愛の方向を示す。その方向を行けば到達できなくても到達される。数学でも同じく、到達できなくとも到達されている。それが切断というものである。それはIdeeで方向付けられたSymbolである。Symbolは無としての完成を持つ、完結なき完結である。しかし現実の方は渦流をなし、台風的に動く」(田辺(1953:366)) 

文献

田辺元(1964(1953))『続北軽井沢特別講義』,『田邊元全集』第15巻,349-417頁,筑摩書房
田辺元(2010(1954))『数理の歴史主義展開』,藤田正勝編『哲学の根本問題 数理の歴史主義展開 田辺元哲学選Ⅲ』,219-399頁,岩波書店