下村寅太郎と分析哲学/大陸哲学 (メモ)

このメモ書きは去年の夏頃に作成したものである。


 下村寅太郎は『哲学研究』の田辺元博士追悼号(1964年)に論文「田邊哲学における数理哲学の地位について ―『数理の歴史主義展開』を中心として―」を寄稿した(以下では、この論文を下村論文と略記する)。田辺は『数理の歴史主義展開』(1954年)を「私の哲学思想の総決算的告白」と位置付けていたにも拘わらず、2010年代に入るまで同書の内容に踏み込んだ論文はほとんどなかったが、その数少ない例外が下村論文である。
 下村論文には興味深い記述が多数あるわけだが、今回取り上げるのは田辺の後期科学哲学が黙殺された理由について考察した箇所である。それは以下のようなものである。
 「哲学者にとってはそれの高度の科学的専門的内容の故に、科学者にとってはそれの高度に難解な哲学的思弁の故に、何れの側からもappreciateされ得ず、むしろ敬遠されたというに庶幾い。(中略)。後期の諸論著は、直接には現代の数学・物理学の基礎問題が論じられている場合でも、突如として―誠に突如としての印象を与える―死復活、絶対無、往相即還相、伝統保存即革新創造等々の科学的概念に対して異質異次元の概念が自由に行使され、極めて唐突の感を与え、論旨に追随し難く、躓きの原因となったことは争えない。」(下村(1964:60))
 田辺の後期科学哲学は数学や物理学に関する哲学ではなく、種の論理という独自の弁証法を以て数学・物理学を理解しようとするもの―下村はこれを「科学・数学即哲学」と表現する―であった(下村(1964:60))。後期の田辺は前期・中期以上に数学・物理学の専門的内容に踏み込んでいる。それ故、「哲学者」にとって取っつきにくいものとなっているのは否めない。だからといって、科学者が田辺の後期科学哲学を容易く理解できるわけでもない。科学者が「ヘーゲル的観想の弁証法を超えるキェルケゴール的実践弁証法に通ずる、メービウス環帯」という記述を見たら(田辺(2010:348))、戸惑うより外にないであろう。
 ※「哲学者」に鉤括弧を付けたのは下村の立場と区別するためである。
ところで、下村は如何なる立場に立っているのだろうか。下村は田辺の後期科学哲学の特質を理解した上でその内容を論じているのだから、「哲学者」や科学者の立場に立っているわけではないが、田辺の種の論理に同調しているわけでもない。下村は田辺の『数理の歴史主義展開』に対して「現在の数学基礎論が極めてテクニカルな論究に没入している現状に於てまことに空谷の跫音に外ならぬ」「哲学の正統的伝統の典型」という高評価を与える一方で(下村(1964:62))、「現代数学の先端にある位相学は自分の歴史主義と同じ構造を有している」という田辺の主張を徹底的に批判している(下村(1964:74-87))。下村が科学者・「哲学者」・田辺の何れの立場にも与していないことは明白だが、下村の立場がどのようなものなのかがはっきりしないのである。
 ※後年、下村は「西田・田辺両先生はロジシャンで、私はヒストリアンである」と自己規定しているので、下村はヒストリアンの立場に立っていると言えるかもしれない。

フリードマン史観について

 田辺研究において、下村の立場について考察する上で手掛かりになりそうなものが提示されているので、それについて述べておきたい。
 林晋氏は2012年に発表した論文の中で、マイケル・フリードマンが提示した思想史観を以て田辺哲学を考察することで、従来、理解困難と目されていた田辺の後期「数理哲学」を理解できるようになるのではないかと提言しておられる(林(2012:214-215))。氏の説明によると、フリードマンの思想史観は以下のようなものである。
 「フリードマンは、現代の分断された大陸哲学と英米哲学が、ともに新カント派にルーツを持ち、分断前には十分互いに理解可能だったことを、著名な「ダボス討論」(1929年)を契機とする、ハイデガーカッシーラー、そしてカルナップの交流を通して生き生きと描き出して見せた。フリードマンの「物語」は、大陸哲学、英米哲学が、新カント派から脱出して生まれる、その発生時にまで戻ってそれぞれの動機を理解すれば、分断された現在の哲学の二つの陣営に橋をかけられる可能性を示唆している。」(林(2012:200))
 このフリードマン史観を田辺に当てはめると、田辺は「分断が起こる時代に、分断のルーツから出て、分断の両側を生き、そして、別れ行く二つの道を懸命に繋ぎ止めようとした哲学者」と位置付けられることになる(林(2012:214-215))。田辺(1885-1962)は新カント派の科学哲学の研究者としてキャリアをスタートさせたが(1910年代から1920年代)、その後は新カント派だけではなくラッセルの数理哲学やハイデガー存在論などありとあらゆる哲学を批判的に吸収し、独自の哲学を打ち立てた。田辺が分析哲学と大陸哲学の分断をどこまで自覚していたのか、また、自覚していたとして、その分断を乗り越えるという問題意識を持っていたのかは定かではないが、後から見れば「別れ行く二つの道を懸命に繋ぎ止めようとした哲学者」と言えるのである。

 さて、このフリードマン史観を下村(1902-1995)に適用するとどうなるか。下村が数理哲学の研究を開始した頃、新カント派の哲学はまだまだ盛んに研究されており、下村もそれらを参照していた。その意味で、下村は「分断が起こる時代に、分断のルーツから出」た哲学者と言えるだろう。また、下村は英米圏の哲学(ラッセルなど)と大陸哲学(ハイデガーなど)の双方に目を通しているため、「分断の両側を生き」た哲学者でもある。
 問題はここからである。下村はこの分断に対してどう対応したと言えるのか。下村は田辺のように「科学・数学即哲学」を構築する道を選ばず、近代数学/近代科学成立への歴史を描き出すという道を選んだ。これは分断を架橋する試み、あるいは分断を食い止めようとする試みと言えるのか。

文献

下村寅太郎(1964)「田邊哲学における数理哲学の地位について ―『数理の歴史主義展開』を中心として―」,『哲学研究』第四十二巻第七冊,57-89頁
田辺元(2010(1954))『数理の歴史主義展開』,藤田正勝編『哲学の根本問題 数理の歴史主義展開 田辺元哲学選Ⅲ』,219-399頁,岩波書店
林晋(2012)「田辺元の「数理哲学」」, 『思想』1053号,197-216頁,岩波書店