井筒俊彦による西谷啓治・下村寅太郎評(メモ)

このメモ書きは昨年の夏に作成したものである。「井筒が田辺元の哲学を論じているか箇所はないか」と思って『井筒俊彦全集』の頁をめくったが、田辺に関する記述は見つからなかった。ただ、井筒俊彦西谷啓治下村寅太郎の仕事をどう評価していたのかが分かる文章を見つけたので、ここにメモした次第である。また、井筒と西田幾多郎の哲学の関係について気になったことがあるので、それも記録している。
 尤も、井筒の西谷・下村評は2人の著作集の推薦文に書かれたものであるため、肯定的なことしか書かれていない。

井筒の西谷評

 「世界思想史における「不易」を、東西の宗教哲学的伝統のうちに読み取り、人類の生んだこれら二つの強大な思想潮流を、構造的相関性において実存的に結合しながら、華麗多彩な独自の哲学を繰り出して来た一人の文人哲学者を―東洋的文化パラダイムを内に含んだ一人の哲学者を―私は西谷博士のうちに見る。
 東と西の精神文化の伝統が、溌剌たる対話の場をそこに見出すこの日本の哲人は、その人自体が、すでに一個の現代的思想現象である。」(井筒(2015a:283))

井筒の下村評

 「ルネサンス的人間像を根底的に特徴づける「普遍的人間」の理念。イスラーム哲学の「完璧な人」や、ロシアの詩人プーシュキンの「全人」などにも通じる一つの宇宙的な人間理念。そのような意味でのルネサンス的普遍性を、悠々と追求しておられる先生の姿が私を魅惑する。こういう広大な展望のうちに見えてくるであろう世界思想パラダイムの多極的普遍性こそ、現代の日本の哲学が、これから探求してゆかなくてはならない第一義的な課題である、と私は信じる。
 日本の哲学者、下村寅太郎―私にとって先生は、日本的な文人文化伝統の、現代におけるたぐいまれな体現者であるばかりでなく、さらにそれを、ルネサンス的精神の活力によって、現代日本の思想風土のなかに、独自の普遍性をもった形で、発展させることのできる、ほとんど唯一の貴重な存在なのである。」(井筒(2015c:352))
 なお、井筒は推薦文の中で「下村が「主著」を執筆している準備をしており、その題目は「精神史としての科学史」である」という趣旨のことを述べている(井筒(2015c:351))。現在、下村の膨大な遺稿は京都大学の図書館が所蔵しているそうだが、その中には「主著」の草稿も含まれているのではないか。

井筒と西田哲学に関して

 1980年代後半、井筒は上田閑照氏や新田義弘氏と一緒に西田幾多郎の論文を読む研究会を立ち上げ、同会の活動は井筒が1993年に亡くなるまで続いた。その集まりでの議論を踏まえて、上田氏は『西田幾多郎を読む』、新田氏は『現代の問いとしての西田哲学』を書き上げたが(上田(2007:59),新田(1998:231))、その一方で、井筒の晩年の著作で西田哲学に言及した箇所は驚くほど少ない。5年以上もの間西田哲学と取り組んでいたのだから、井筒が西田哲学を無価値と考えているはずはない。しかし、井筒が西田をほとんど論じなかったという事実をどう解釈すれば良いのだろうか。
 もう一つ疑問がある。井筒が参加した研究会で使用された西田のテクストは『西田幾多郎哲学論集Ⅰ』(1987年)である(上田(2007:59))。同書には西田哲学の前期から中期に発表された重要論文(「場所」、『叡知的世界』、『私と汝』)が収録されている。何故これがテクストとして選ばれたのだろうか。『善の研究』から読み進めるのでもなく、歴史的世界を論じた後期の諸論考を読むのでもなく、敢えて前期・中期の時期(つまり、自覚から場所へと移る時期)の論文を選んだのには何か理由があったのだろうか。

文献

井筒俊彦(2015a(1986))「『西谷啓治著作集』推薦」,『井筒俊彦全集』第九巻,282-283頁,慶應義塾大学出版会
井筒俊彦(2015b(1987))「いま、なぜ「西田哲学」か」,『井筒俊彦全集』第九巻,350頁,慶應義塾大学出版会
井筒俊彦(2015c(1987))「下村先生の「主著」」,『井筒俊彦全集』第九巻,351-353頁,慶應義塾大学出版会
上田閑照(2008)『哲学コレクションⅤ 道程―思索の風景―』,岩波書店
新田義弘(1998)『現代の問いとしての西田哲学』,岩波書店