覚書「田辺元と南原繁」1

  田辺元南原繁という組み合わせは奇異に映るであろうから、この2人を取り上げる必要について説明したいと思う。その理由は2つある。①南原繁は「種の論理」の形成に大きな影響を与えていることと、②田辺元をはじめとする京都学派の哲学者(この一連の覚書では木村素衛高坂正顕を取り上げてみたい)たちが民族の問題に取り組んでいたほぼ同時期に、南原は京都学派とは別の形で民族の問題に取り組んでいたことである。南原と京都学派を比較することで両者の特徴が浮き彫りになるであろう。また、南原と田辺(ないしは高坂)を比較することで、何故同じ民族の問題に取り組みながら、前者は戦争に加担せず、後者は戦争を肯定する発言をしてしまったのかという問題にも新しい光を投じることができるかもしれない。  覚書1では、①について考える上での「序文」を公開する。

なお、引用文献に関してはリンク先を参照されたし。

覚書について  

 表題を「覚書」としたのは、素人である私が本を読んで考えたことを、自分自身のためにまとめたものであるということを明確にしたかったからである。この覚書に何らかの学問的価値があるとは思っていない。ただ、そんな覚書でも公開しておけば、誰かの目に留まって何らかの刺激になることもあるのではないかと考えてのことである。
なお、予め断っておくが、覚書「田辺元南原繁」の中にはかつて私が大学に在籍していた頃に書いた文章を加筆・修正したものが含まれる。また、現時点で、筆者にはこの覚書がどの程度の分量になるのか全く見当がついていない。

 

 1934年、田辺元 は論文「社会存在の論理」を発表し、「種の論理」と呼ばれる独自の哲学的立場を打ち立てるに至った。田辺は社会が個人に対して及ぼす強制力の由来を解明することで、個人がその強制力の影響を受けつつもなお自由を確保し、また、個人の自由を抑圧し、時には圧殺することもある共同体を人類的立場に開く途を提示しようとした(田辺(1937b:449-457) )。これは全体主義が台頭しつつあった現状に抵抗するための理論的根拠を構築するための試みでもあった。
 その独創性故に、「種の論理」は同時代の哲学者たちの関心を引きつけた。西田幾多郎が田辺を意識しながら自身の哲学を構築していったのはよく知られているが、その影響は西田だけに留まるものではない。「種の論理」は高橋里美や務台理作の関心を呼び 、2人は田辺批判を展開した。そして、田辺は論文「種の論理に対する批評に答ふ」(1937年)で2人への反論を試みた。近年、田辺・高橋論争及び田辺・務台論争は再度検討される価値のある論争として注目を集めている(合田(2018:27-28)、菅原(2018:179) ただし、後者は田辺・務台論争には言及していない )*1

 ところで、その流れを踏まえるなら、もう一人取り上げなければならない人物がいる。それは南原繁である。南原は著書『国家と宗教 ヨーロッパ精神史の研究』(1942年)で田辺の国家存在論を批判した 。高橋と務台の批判は「種の論理」の1回目の修正に大きな影響を与えたが 、南原の批判は「種の論理」の2回目の修正に大きな影響を与えた 。2回目の修正は国家存在論としての種の論理が行き詰まり、その果てに「哲学ならぬ哲学」としての懺悔道の立場が確立したことに伴って施された修正である。その修正がまとめられたのは『種の論理の弁証法』(1947年)においてであった。
 南原の批判から受けた影響について、田辺は以下のように語っている。

 「国家に於いてもその存在の根源に潜む根原悪の自覚と、その懺悔とが、必要なのである。私の従来の所説は、此点に関し抽象的なることを免れなかった。その為に国家絶対主義の傾向を誘致したことも否定せられない。縦それは国家の理念に就いての規定であって、現実の国家に関する論議ではなく、況や或特殊国家の原理附けに関わるものではなかったとはいえ、而も斯かる目的に利用せられる可能性ある物であったことは、争うことができぬ。私はこの欠陥を告白しなければならない(此点に関し南原繁氏の著書『国家と宗教』の批評は、私にとり最も啓発的であった。記して感謝の意を表する)。」(田辺(1947a:366-367))

 高橋・務台の場合とは異なり、田辺と南原の間に論争は発生しなかった。上の引用文だけを見れば、田辺は南原の批判を正当なものだとみなし、それを受け入れて自説を修正したかのように思える。もしそれに尽きるものであるならば、敢えて南原の田辺批判を検討する必要はないであろう。
 しかし、ここで注目すべきことがある。田辺は南原の批判が啓発的だったのは「此点」、つまり国家の絶対化という問題点においてであると述べているのであって、批判の全てが啓発的だったと述べているわけではない 。実は、南原の批判は国家の絶対化だけに向けられたものではない。南原は国家存在論における世界秩序の不在と絶対媒介の論理の問題点を指摘しているが、田辺はこの2つの批判が啓発的だったとは述べていないのである。
田辺はこの2点に対する批判を事実上黙殺した。また、南原の側も黙殺に対して異を唱えることはなかった。しかし、南原が指摘した残り2つの問題点は応答するに値しないものだったのだろうか。後に詳述するが、筆者は残り2つの問題点も検討されるべき価値があると考えている*2

 


 

*1:「何故ここで高橋と務台の田辺批判に言及する必要があるのか」という疑問が生じるかもしれないが、これには理由がある。合田氏が既に指摘しているように(合田(2018:29))、高橋・務台・南原の田辺批判は連関しているからである。(なお、務台の社会存在論が丸山の書評を媒介にして南原の田辺批判と繋がっている可能性は古田(2002:351-354)でも指摘されているが、高橋と務台の繋がりに関する指摘はなされなかった)。
 務台の田辺批判は高橋の田辺批判を参照した上で行われている(務台(2002:172))。務台による田辺批判の論文「社会存在論に於ける世界構造の問題」が収録された著書『社会存在論』は1939年に刊行されたが、その書評を執筆したのが南原の弟子、丸山真男であった。丸山の批判は務台への批判に留まらず、京都学派の社会存在論全体に向けられた。南原の田辺批判に丸山の名前は出てこないが、南原が丸山の書評論文を読んでいたとしても不思議はない。また、務台の田辺批判に西田幾多郎が同意していることを思うなら、この連関の中に西田を巻き込むことも可能であろう。
 さらに言えば、木村素衛は遺著『国家に於ける文化と教育』(1946年)で田辺の種の論理に触発された議論を展開しているため、彼もこの連関の中に位置付けることができるかもしれない。木村と務台、南原は自身の政治哲学・国家論を展開するに当たってフィヒテの政治哲学から大きな影響を受けているという点でも共通項を有している。
 戦後も、唐木順三が『現代史への試み』で種の論理を踏まえつつ教養について考察したり、高山岩男が種の論理を手引きに、自身独自の立場である呼応の原理を構築したりしている。これらを「種の論理受容の歴史」としてひとまとめにできるかもしれない。

*2: ※田辺の弟子であると共に、東大在学中に南原の指導を受けた武藤一雄は以下のように述べている。
 「田辺先生の思想のうちに、日本のいよいよファッシズムに傾斜しつつある国家的現状に対する大いなる批判の契機を看取するとともに、そこに誤解され得べき或る種の問題性が潜んでいることも感知せざるを得なかった。南原先生の簡明直截な田辺哲学批判、すなわち、田辺先生の「国家存在の論理」、国家を以って絶対無の現成とする「国家信仰」にほかならないとする批判(『国家と宗教』著作集第一巻二六四頁以下)は、その批判が何処まで妥当性をもち得るかどうかという問題を超えて田辺哲学に傾倒していた私にとって、(中略)、絶えず揺曳する思想的一契機となった」(武藤(1975:303))