下村寅太郎は京都学派をどう理解していたか (メモ)

念のために前置きしておくが、このメモ書きは「下村寅太郎が言うように京都学派を理解すべきだ」などと主張するものではない。

 哲学における京都学派の定義は大きく分けて2つある(藤田(2009)などを参照のこと)。1つ目は京都学派を西田幾多郎田辺元を中心とした知的ネットワークとみなすものである。この場合、西田・田辺から直接影響を受けた同時代人と両者の弟子が京都学派に属するということになる。2つ目は絶対無ないしはそれに類する概念を術語として使用した哲学者の集団とみなすものである。この場合、絶対無に相当する全体という概念を術語として使用した高橋里美は京都学派に組み込まれるが、西田の弟子でありながら、絶対無を自らの哲学の術語として使用しなかった人々(三宅剛一や三木清など)は京都学派の外に置かれることになる。

 1946年、下村寅太郎は「西田哲学について」と題した講演の中で京都学派について言及したが、そこで示された京都学派理解は上の2つのどちらにも当てはまらないものであった。下村は以下のように述べている。
 「西田先生自身は根本的な基礎問題のみを追及するにもっぱらで、それの洗練や仕上げはもっぱら門下の学者に委ねられていたのであります。まず西田哲学の論理を根本的に追及してもっと精密にしたのが務台理作博士の「場所の論理学」であります。西田先生の宗教的体験的側面を受け継いでいるのは京都大学久松真一博士、それから宗教哲学、文化哲学は西谷啓治博士、歴史哲学の方面は高坂正顕博士、倫理学は柳田謙十郎博士、人間学の方面が高山岩男博士、教育哲学、美学の方面を木村素衛博士、私も驥尾に付して数理哲学、科学哲学をその立場から勉強してきました。(中略)。京都学派の人々の業績はいわば西田哲学の特殊問題の追及で、西田哲学の真の批評はまだできておりません。」(下村(1990a:136))
 京都学派を西田哲学の立場から個々の特殊問題を考察した哲学者の集団と理解するのは目新しいが、上の引用文だけを見ると、京都学派に含まれる哲学者は先述の二つの定義に即した場合とあまり変らないように思える。変化があるとすれば、柳田謙十郎の名前が挙がっていることくらいに見える。
 しかし、上の2つの定義とは大きく異なる点が1つある。下村は田辺を西田哲学に根本的な批評を行った史上初の人物と理解している(下村(1990a:137))。それ故、下村の理解に即すならば、田辺は京都学派の外に置かれることになる。田辺は西田哲学との対決を通して「種の論理」という独自な立場を構築しており、西田哲学の枠内に留まって思索した哲学者の集団としての京都学派には入り得ないのである。

 ※①1946年の時点で、下村が言うところの京都学派の人々が西田哲学に対して本質的な批評をなし得ていなかったという理解は妥当か、また、「精神史としての科学史・数学史」に取り組んでいた下村は西田哲学の枠内で哲学していた人と言えるのかという疑問はあるが、ひとまずそれは脇に置くことにする。
 ※②下村は1977年に発表した論考「明治以後の日本哲学」で田辺元を京都学派の一員として紹介しているが(下村(1990b:523))、下村の日記を見るに、下村は晩年になっても田辺を京都学派から外して理解していたようである。おそらく、先の論考で田辺を京都学派の一員として紹介したのは、広く流通している理解に従っただけなのではないか。

田辺の自己認識

 田辺の著作や書簡を読むと、下村の理解を裏書きするような記述が幾つか見られる。田辺は野上弥生子宛の書簡(1953年12月6日)で以下のように述べている。
  「大島君の倫理御読み遊ばされます趣、御感想は小生全然御同意でございます。(中略)。小生と致しましては、同君の学才に敬意を懐きますこと大ではございますけれども、学風の相違を感じますこともまたやむを得ませぬ。殊に同君京都以来(戦時中から)、いわゆる京都学派の先輩たちと深く交わりその思想に共鳴して、小生の革新主義とはむしろ疎隔を免れませぬでした。現在も先輩たちと深交、共に信州の教員相手の講演に熱心なること、小生の慊らざる所でございます。」(田辺(2012上:98-99),強調は筆者)
 「京都学派の先輩たち」が具体的に誰を指すのかは特定できないが、「戦時中」という文言があるのを思うに、西谷啓治高坂正顕高山岩男のことを念頭に置いていると思われる。「疎隔」が客観的にも確認できるのかという問題はあるにせよ、田辺自身は自分の立場と「京都学派の先輩たち」の立場との間に隔たりを感じていた。
 また、田辺は『懺悔道としての哲学』(1946年)で「「種の論理」というのも、今日の国家における我々国民の位置というものについて私が自ら苦しんだ結果到達した思想であるので、かかる苦を経験しない人々の理解を受け得なかったのは当然である」と嘆いている(田辺(2010:420))。田辺が「種の論理」を提唱してからというもの、田辺に触発されて種の問題を論じた哲学者が少なからずでたが(務台や西田、木村など)、田辺の目には、彼らの種に関する議論が全くの誤解に基づくものと映ったのである。この記述も田辺と下村が言うところの京都学派の間に距離があることを示唆しているであろう。

文献

下村寅太郎(1990a(1947))「西田哲学について」,『下村寅太郎著作集』第12巻,97-138頁,みすず書房
下村寅太郎(1990b(1997))「明治以後の日本哲学」,『下村寅太郎著作集』第12巻,509-529頁,みすず書房
田辺元野上弥生子(2012(2002))『田辺元野上弥生子往復書簡』(上下),竹田篤司・宇田健編,岩波書店
田辺元(2010(1946))『懺悔道としての哲学』,藤田正勝編『懺悔道としての哲学 田辺元哲学選Ⅱ』,35-439頁,岩波書店
藤田正勝(2009)「「京都学派」とは何か ―近年の研究に触れながら―」,『日本思想史学』第41号,35-48頁