下村寅太郎が見た柳田謙十郎の転向 (メモ)

 予め断っておくが、このメモ書きは柳田謙十郎の転向の是非を検討したり、転向に思想上の内的必然性があったか否かを検証したりするものではない。

柳田謙十郎の転向

 1939年、柳田謙十郎は『実践哲学としての西田哲学』を公刊したが、その中で以下のようなことを述べている。
「嘗てカントに苦しみフィヒテに悩み、さては現代の現象学倫理学がもつ所の限界に行き詰まって絶対のアポリアに直面せざるを得なかった著者は、その思惟の迷路に対する最後のよびかけをば西田哲学から聴くことによって、ここに始めて新たなる生命の世界への緒を見出し、そこから限りなく開かれゆく展望のゆたけさに、自分がこの時この国に生れて自国語を以て此の人の言葉をきき得ることの有りがたさを今更ながら感ぜざるを得なかったのである。」(柳田(1939:7))
「著者はその生命のつづく限り(西田の著作を)更に深く読み直し考え直すことによって一年一年とその理解を深めてゆくことを以て自己の生涯の課題として行き度いと思うものである」(柳田(1939:431-422))

 上の引用文を読めば、当時の柳田の西田哲学への傾倒ぶりが分かるであろう。しかし、そんな柳田でも西田哲学に対する不満を抱えていた。それは西田哲学が社会問題を解決する際の実践の指針たり得ないというものであった(柳田(1950:60))。それに対し、柳田の目に映った唯物論は現実社会の構造上の矛盾を解明するだけではなく、その矛盾を如何に解決すべきかの指針をも与えてくれる理論だった。そのため、戦後の柳田は徐々に唯物論へと接近していき、ついには、1950年に発表した論文「西田哲学の超克」で従来依拠していた西田哲学の立場から"独自の"唯物論の立場へ移行することを宣言するに至った。
 ※柳田が転向した原因は西田哲学への不満だけにあるわけではない。もう一つの原因は京都学派の戦争責任に対する反省であるが、これについては後日公開する予定のメモ書きで扱いたいと思う。
 ※ネット上には「柳田が西田哲学を捨てて唯物論へと転向した」という趣旨の記述が多数あるが、これは不正確である。確かに、柳田は唯物論者になったが、西田哲学の意義を積極的に認めており、西田哲学を完全に捨て去ったわけではない。柳田は唯物論を西田哲学で補正することで、より具体的な理論を構築しようとしたのである。

下村寅太郎の反応

 西田の門下生たちは柳田の唐突な転向に不快感・不審を抱いたようである。ここでは、下村寅太郎の反応を見てみたい。下村は1946年に行った講演の中で、柳田を「京都学派」及び西田門下として取り上げ、自身と同様、西田がやり残した課題(西田哲学を個々の特殊問題に応用する)に取り組む人間として挙げており(下村(1990a:136))、一定の評価を与えていたようだが、転向に対する評価は何とも手厳しいものである。
 「戦後の、安全地帯に立って華やかな脚光を浴びるかのごときマルクシストには幻滅した。戦後急激に、にわかに群出したマルクシストには、気候の激変による昆虫の異常発生のような印象を受けた。身辺にもそのような人物が現出することになった。去日まで―戦前・戦中には、西田哲学の宣教を生涯の使命だと宣言していた同学の一人が忽然として一夜明けると赤旗を掲げて「西田哲学の超克」を宣言した。彼は『実践哲学としての西田哲学』と号する学術書を著作し、さらに西田哲学全体にわたる体系の解説としても数冊の大冊を出版した仁である。まことに革命の当来を想わす現象であった。実際に彼はこれを説いて友人たちに「未だ間に合う」として共産党に入党することを勧め、仲介の労をとるという手紙を配った。しかしこのような現象にはかえって戦後のマルクシズムに対する幻滅しか感じなかった。」(下村(1999:411) ※原文で強調点が付されている箇所を太字にした)  
 少なくとも下村にとって、柳田の転向は何らの内的必然性や妥当性を有するものではなく、軽薄な柳田が時代の流れに飲まれたために発生した「現象」でしかなかった。ましてや、西田哲学や田辺哲学の成立に匹敵する「精神史的事件」として取り扱われるべきものではなかったのである。

 話は逸れるが、下村は1977年に「明治以後の日本哲学」という論考を発表している。これは1950年に発表した論考を加筆・修正したものだが、この中では西田哲学の解説書として以下の書物が挙げられている(下村(1990b:523))。
 高山岩男『西田哲学』及び『続 西田哲学』、滝沢克己『西田哲学の根本問題』、柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』、下村寅太郎西田幾多郎、人と思想』、高坂正顕西田幾多郎先生の生涯と思想』、宮島肇『明示的思想家像の形成』、竹内良知『西田幾多郎
 柳田の西田哲学論を高坂や高山の西田哲学論と並んで読者に推薦していることに注目したい。これは下村が柳田の『実践哲学としての西田哲学』に学問的価値を認めていたことを意味する。柳田の転向に内心呆れかえっていた下村でさえ、『実践哲学としての西田哲学』の価値を認めざるを得なかったわけだが、今では同書が参照されることは少なくなったように思う。改めて読み返したなら、何らかの発見があるのではないかと素人ながらに思う次第である。
 ※柳田が『実践哲学としての西田哲学』(1939年)を発表したのは、西田が「実践哲学序論」や「ポイエシスとプラクシス」(共に1940年)を発表する以前、つまり、西田自身が実践哲学に関するまとまった論考を発表する以前だったことにも注目したい。柳田は西田本人よりも早く、西田哲学を実践哲学として読み解いた人間なのである。

参考文献

高山岩男(1950)「巡礼の哲学 ―柳田謙十郎氏「西田哲学の超克」を読みて―」,『日本評論』1950年6月号,58-64頁
下村寅太郎(1990a(1947))「西田哲学について」,『下村寅太郎著作集』第12巻,97-138頁,みすず書房
下村寅太郎(1990b(1977))「明治以後の日本哲学」,『下村寅太郎著作集』第12巻, 509-529頁, みすず書房
下村寅太郎(1999)「著作遍路或いは自画自賛」,『下村寅太郎著作集』第13巻,291-420頁, みすず書房
柳田謙十郎(1939)『実践哲学としての西田哲学』,弘文堂
柳田謙十郎(1950)「西田哲学の超克 ―わが思想は哲学の根柢を求めて遍歴する―」,『日本評論』1950年4月号, 57-64頁