森昭の教育哲学と京都学派の哲学①(メモ)

 最近、筆者のTLに京都学派と教育学の関係についてのツイートが流れてくるようになった。この問題に関心を持つ人が少なからずいるようなので、2年前に作成したメモを公開する次第である。(タイトルには①とつけたが、②以降が出るかどうかはまだはっきりしない)


 京都学派の哲学者で教育を論じた人というと、多くの人は真っ先に木村素衛を思い浮かべるだろうが、他にもその条件に該当する人は存在する。そのうちの一人が今回取り上げる森昭である。森は田辺元木村素衛の指導を受けており、主著の一つである『教育人間学』(1961年)では2人の著作が多数参照されている。
 人間関係に注目すれば、森は間違いなく京都学派の流れを汲む哲学者である。しかし、森は西田や田辺・木村が使用した絶対無(に類する語)を術語として使用しておらず、宗教哲学の方向に思索を進めたわけでもない(最晩年に宗教的なものを論じようとした形跡はあるが、未完に終わってしまった)。それ故、森が田辺や木村から受けた影響が見えにくい状態にある。
 森が2人から如何なる影響を受けたのかを開明する必要があるわけだが、その作業を遂行するに際して役に立つであろう手掛かりをここに記録しておく。それは森昭が未完の遺著『人間形成原論』(1977年)で自分の研究者としてのキャリアを総括した文章である。
「ある時、自分の研究歴を年表にしてみると、教育の哲学的思索への傾斜と、教育現実への実践的関心とが、ほぼ五年ごとに入れ替わったことに気づいた。それはまた、私が生きてきた時代の変化にも、直接あるいは間接に対応する。
 1 大学時代から終戦直後まで、田辺哲学の影響のもとでドイツ哲学と実存主義の立場から、教育の本質を探求し、これを処女作『教育理想の哲学的探求』(昭和二三年)に書き誌した。
 2 つづいて戦後の活発な新教育運動のなかで、教育の過程に右の立場よりもいっそう具体的実践的に働き込んでゆける教育理論を求め、『今日の教育原理』(昭和二四年)、『経験主義の教育原理』(昭和二七年)を書いた。
 3 ところが右の追求をすすめるなかで、経験主義が実践的具体性の半面で人間と教育の内面的主体性が十分でないことを思い、実践性と内面性を統一する道徳教育の問題へと新たな思索をすすめ、『教育の実践性と内面性』(昭和三〇年)を出版した。
 4 右に述べた十数年に及ぶ研究の過程で私の教育理論の中にしだいに中心的な位置を占めてきた「人間生成」に関する想念を、人間諸科学の成果と哲学的思索によって体系化しようと悪戦苦闘し、その成果を『教育人間学』(昭和三六年)に体系的に展開しようと試みた。
 5 右の仕事に没頭した六、七年の間に、日本の社会と教育は終戦直後には夢想だにしなかった激しい発展と変貌をすすめていた。そこから予想される新しい未来に向けて教育をどのようにすすめるべきかに、いまや一転して研究と思索の全力を傾けて、『未来からの教育』(昭和四〇年)を書いたが、
 6 その未来は、科学技術文明の急激な進歩の反面で、人間と教育の未曾有の危機・混迷が深まるであろうことを思い、人間形成の問題を根本から問いなおし、自分の座標軸を定めようと努力し、最初の着想を『人間の形成』(昭和四五年)に書き誌し、さらに体系的な展開を『現代教育学原論』(改訂二版、昭和五一年)で試みた。
 7 右の拙著でまがりなりにも見定めた座標のなかで、あらためて人間の形成と生成の問題に思いを潜めた。その間に私は新設の人間科学部で人間形成論講座を担当することになり、意欲にもえて人間形成原論の構想にとりかかったが、それから程なく還暦を迎え、その一月後には予想もしない難病にとりつかれた。いくたびか入退院をくりかえしつつ懸命に構想をすすめてきたのが、本書なのである。」(森(1977:1-3))

森は終戦直後まで田辺哲学の影響下にあったことを認めているが、それ以降は田辺の影響下から離脱したかに見える。ところが、森と田辺の交流は後者が亡くなるまで続いている(森は田辺から受け取った書簡の一部を『田邊元全集』第8巻の月報で公開している)。この交流が森に何らの影響も及ぼさなかったとは考えにくい。
 木村からの影響について一切言及がないというのは不可解なことだが、これは森が木村から受けた影響の小ささを物語るものなのだろうか。それとも、単に書かなかっただけなのだろうか。
※田辺と森の関係を考察した研究としては、『日本教育学の系譜』(勁草書房, 2014年)所収の田中毎実氏の論考「森昭を読む―教育的公共性から世代継承的公共性へ」などがある。

文献

森昭(1977)『人間形成原論』,『森昭著作集』第6巻,1-263頁,黎明書房