下村寅太郎の3つの顔 (メモ)

京都学派の哲学に関する論文・研究書は毎年世に出ているわけだが、下村寅太郎に関する研究は一向に進む気配がない。2016年には「下村寅太郎という謎」と題された論文が発表されたわけだが、2019年の今も、下村は謎の存在として君臨し続けているように思う。下村のブルクハルト論が出たとき(1983年)、周囲の人間がほぼ無反応だったことを思えば、下村は存命中から既に謎の存在になっていたのかもしれない。
 その原因は下村が扱った領域の広大さにある。下村は数理哲学と科学史の研究者としてキャリアを出発させたが、1950年代後半には、突如としてルネサンスの芸術を研究し始め、1970年代には「世界史の哲学」とでも言うべきものを構想した。下村の著作一覧を眺めただけでは、それらに何らの一貫性も見出せないであろう。さらに言えば、下村自身も「一貫性がないという指摘は免れないであろう」という趣旨のことを述べており、刊行著作の中で、多岐にわたる自己の業績がどのように連関しているのかを明示しなかった。それ故、下村の著作全体に連関を見出す作業は我々に委ねられている。下村が扱った領域に関する基礎知識をフォローするだけでも一苦労なのに、さらに全体の連関を見出す作業ともなれば、途方もない作業になることは誰の目にも明らかであろう。

 筆者はここ2年ほど下村の著作を読んできた。「田辺元は弟子である下村寅太郎にどのような影響を及ぼしたのか」という関心から下村の著作を手に取ったわけだが、読み進めて行くにつれて、この疑問を解明するためには、下村の著作全体の連関を把握しなければならないことに気が付いた(詳細は後日書くが、下村が精神史という手法を採用したことと、晩年に「世界史の哲学」を構想したのは田辺哲学の限界・欠点を乗り越えるためである。田辺が下村に与えた影響を理解するには、下村の精神史や「世界史の哲学」とは何かを理解する必要がある。そして、両者を理解するには両者の連関を把握しなければならない)。素人が片手間で解決できる問題だとは思っていないが、できる限りのことはやってみようと思う。

下村の3つの顔

下村はレオナルド・ダ・ビンチを理解する際に、レオナルドから科学者・芸術家・哲学者の3つの側面を抽出し、その3つが実際は統一されているという主張を展開した。差し当たり、筆者はそれに習って下村を理解してみようと思う。現時点の見立てでは、①と③が②において統一されると思われる。
①「精神史としての科学史」を構想した人
 近代科学の成立を精神史の手法を使って描き出そうとした人としての側面。『科学史の哲学』をはじめとする戦前の著作や50年代後半以降のルネサンス研究、聖フランシス研究が「精神史としての科学史」に含まれる。下村が芸術を論じ始めたのは、芸術の成立があったからこそ、近代科学も成立したという確信に基づいてのことである(『下村寅太郎著作集』第2巻後記,462-463頁)。
②「世界史の哲学」を構想した人
 「世界史の哲学」という独自の歴史哲学を構想した人としての側面。論文「世界史の可能根拠について」や「モナドジーと場所の哲学」、ブルクハルト論が「世界史の哲学」に含まれる。
③京都学派の哲学者
 西田幾多郎田辺元の弟子としての側面。下村は絶対無のような京都学派独自の術語こそ使用しなかったが、西田や田辺から強い影響を受けているのは間違いない。
 従来、下村を論じる際には、1950年代後半のルネサンス研究開始以前・以後で区切りを付けるのが常道であるが、下村の「精神史としての科学史」は近代科学がどのように成立したのかを解明することを最終目標にしているという点では一貫している。それ故、敢えてルネサンス研究への移行で区切らないことにした。下村の関心の移行は「科学論から芸術論へ」と理解すべきものではなく、「科学論のために芸術論へ」と理解すべきだと判断した(前者の立場を取った場合、晩年の下村が何故ニュートン研究に取り組んだのか理解できなくなる)。