究極の教育原理としての実存協同(メモ)

 田辺元は「死の哲学」の梗概として執筆した論文「メメント モリ」(1958)の中で『碧巌録』を参照しつつ、実存協同を以下のように説明している。
 「師の愛を通じて自ら真実を悟得した弟子は、それに感謝する限り、当然に、自ら悟り得た真実を報謝して、更に新しく他人に回施し、彼をして彼自身の真実を自悟せしめるための媒介としなければならぬ。ここに自ら真実を悟るに師を要すると同時に、その真実を更に他人に回施するに、それぞれ自己に固有の真実を自覚する主体(すなわちいわゆる実存)が、個別的にしてしかも普遍的なる真実に対応してモナドジー的に実存協同を形作るべきゆえんがある。」
 通常、田辺の実存協同は死者論の文脈で論じられる。しかし、上の引用文を見れば分かるように、「死の哲学」の時期における実存協同のモデルは禅の師弟関係である。そうであるならば、実存協同を手引きに師弟関係について考察することもできるはずである。
 ※現に、教育学者の中には、そのような考察を試みた者が少ないながらもいる(例:矢野(2008:88-92))。
 実は、田辺自身、実存協同を真の教育原理として提示し、現代の教育に異議申し立てをしようとしていた形跡がある。それは石沢要(群馬大学で教鞭を執っていたスピノザ研究者)の『独り参ずるの記』に記されていた。石沢は最晩年の田辺と交流しており、対話の記録を同書に残している。以下の記述は1956年のものである。
 「師弟の関係は、最高の人間関係であり、それは古代ギリシアにおいてソクラテスの示した道であるとともに、達磨大師がその弟子に示した道でもある。(田辺は)こう解かれて教育の本道について厳しく批判する。いわゆる形式化した師弟の道というものは、過去の遺物にすぎない。今日の教育の場には、全く顧みられないであろうが、本来の意味での師弟の道には、永遠の意義がある。このような深刻な教育の原理とは、一体どういうものであろうか。先生は、同時代性と言い、啐啄同時という」(石沢(1990:241)、括弧内筆者補足)
 田辺は学校をはじめとする教育現場から黙殺されることを覚悟の上で、敢えて真の教育原理としての師弟の道を提唱しようとしていた(この考察は後に実存協同に結びつけられることになる)。田辺は真の教育原理を同時代性(キルケゴールの『哲学的断片』の中に出てくる概念)や啐啄同時(禅仏教の語)に見出したわけだが、それは具体的にどのようなものなのか。田辺は次のように語る。
 「キリストは神の仲介者として、直接に人と関係し、救いとなる。ここに、同時代性、禅でいえば啐啄同時のようなものがある。仏教の中で禅だけです。こういう同時代性と言うものを非常に重くみているのは、他にはありません。師と弟子との生きた人格関係において、その慧命を受けつたえて行く、師は神の代理者として、弟子を救いとる。弟子に生きた神の命を伝えて行く。不思議にも、基督教のやり方と、禅のやり方とが似ている」(石沢(1990:242-243),強調は筆者)
 強調部分こそ田辺が考えた究極の教育原理である。田辺は「死の哲学」期の論考で師弟関係に言及しているが、それが究極の教育原理であることを明示しなかった。また、『石沢要著作集』を収蔵している図書館は少ないため、実際に手に取って読んだ人はごく少数であることが予想される。それ故、実存協同を教育哲学の立場から考察するという作業が盛んに行われなかったのだろう。
 今の筆者にはこれが教育について考察する上でどれほど有用なのかが判断できないため、一旦ここで筆を置くことにする。ただ、田辺の実存協同は生者と死者の問題だけを念頭に置いて構築された概念ではなく、究極の教育原理を提示するための概念でもあったことを指摘するに留める。

文献

石沢要(1990)『独り参ずるの記』,『石沢要著作集』第3巻,233-310頁,石沢要著作集刊行会
井上克人(2009)「Deus Quatenusの哲学ースピノザ解釈をめぐる石沢要先生と田辺との接点ー」,『求真』第16号,1-16頁
田辺元(2010(1958))「メメント モリ」,藤田正勝編『死の哲学 田辺元哲学選Ⅳ』,13-29頁,岩波書店
矢野智司(2008)『贈与と交換の教育学 漱石、賢治と純粋贈与のレッスン』,東京大学出版会