映画『ジョーカー』感想 - 「誰もがジョーカーになりうる」のか?

 

 トッド・フィリップス監督の映画『ジョーカー』を鑑賞したので、ここに思ったことをメモしておく次第である。
 Rotten Tomatoesにあるレビューを読むに、批評家から高く評価されている作品であることは間違いないが、本作に対して強烈な嫌悪感を抱いた者が少なからず出ている。それを知った私は「そんなに描写がキツいのか」と覚悟して鑑賞したのだが、思っていたほどではなかった。万人受けする作品ではないが、鑑賞するのが辛くなるような作品ではないと思う。

あらすじ

 アーサー・フレックはコメディアンになることを夢見ていた。しかし、その夢が叶う気配は一向になく、アーサーは日雇いでピエロを演じることで生計を立てていた。アーサーには持病があり、それが原因で社会生活に支障が出ていた。しかも、彼は母親(ペニー)の介護も引き受けていた。頼みの綱になるはずの福祉制度はゴッサム・シティの財政難のために機能不全に陥っており、アーサーが受けられた公的サポートはカウンセリングだけであった。
 そんなある日、アーサーは不良青年に暴行を受けてしまう。それを知った同僚から拳銃を渡されたが、それを派遣先で落としたばかりにピエロの職をクビになってしまった。アーサーは失意の底に沈み、ピエロの格好のまま地下鉄に揺られていた。ほどなくして、3人の証券マンが女性にちょっかいを出しているのが目に入った。折悪しく、持病の発作が出てしまい、3人の注意はアーサーに向けられることになった。3人から暴行を受けたアーサーは、その場の勢いで彼らを銃殺してしまった。金持ちに対する不満を溜め込んでいたゴッサム市民は犯人を英雄視し、改革を求めるデモが活気づくことになった。

 この事件以降、アーサーの運命の歯車は狂っていき、ついには自らの出生の「真実」を知ることになった*1。それが決定打となり、アーサーはジョーカーへと変貌するのだった。

 

「誰もがジョーカーになりうる」のか?

 Twitterを見るに、「アーサーが狂ったのは福祉というセーフティーネットから漏れ出たからである。これは他人事ではない。誰もがジョーカーになりうるのだ」という感想が多数見受けられる。確かに、急病などで働けなくなり福祉制度を必要とする状態に陥ったにも拘わらず、種々の事情で福祉を利用できない状態になる可能性は誰にでもあるだろう(よほどの資産家でもない限りは)。だからと言って、「誰もがジョーカーになりうる」とまでは言えないと思う。アーサーがジョーカーになったのは以下の要因が全て揃ったためであろう。
 1:福祉制度を利用できない状態に陥った 
 2:誰からも必要とされていないという疎外感に苛まれていた
 3:同僚に裏切られて職を失った
 4:好意を持っていた人(マレーとソフィー)から拒絶された
 5:自分の出生の「真実」を知ってしまった
 6:証券マンたちを射殺したことで、世間の人々から英雄視された。
 7:内向的な性格で、一つの物事(空想やネタ作り)に没頭する傾向があった

 あらすじの節にも書いたが、アーサーがジョーカーに変貌する上で決定打となった出来事は5だろう。しかし、それだけではジョーカーにはなれなかったと思う。仮にソフィーから受け入れてもらえたなら、生活苦を脱することはできずとも、ジョーカーに変貌するような事態は起きなかったのではないか。そう思えてならないのである。
 アーサーは長らく疎外感に悩まされていたが、そんな彼を次々と1~5のような不幸が襲ったのである。彼は絶望のただ中に一人でいた。そんな折、世間が初めて彼を必要とした。世間が必要としたのは犯罪者・義賊としてのジョーカーであって、コメディアンとしてのジョーカーではなかった。彼が世間の期待の声に応えたところで待っているのは地獄であろう。しかし、彼が世間の期待に応えない理由はなかったであろう。自分の人生で初めて光が差したように思えたのではないか。
 さらに言えば、彼の性格が狂気を加速させたように思う*2。一つの物事に没頭できるというのは才能にもなり得るが、欠点にもなり得る。往々にして、その手のタイプの人は他のことをして気分を変えようという発想が乏しい。つまり、気分転換や気持ちの切り替えが苦手なのである。アーサーにもその傾向が多分にあり、しかも、内向的な性格であった。それ故、自分の中に鬱憤や苦痛を溜め込んでしまったのである。
 ジョーカーになれる人がもしいるとすれば、それは疎外感に長年悩まされている人+極めて内向的で、一つの物事に没入する傾向のある人+大きな絶望を味わったばかりの人+他者から犯罪者として必要とされた人という4つの条件を全て満たした人だろうが、そんな人はまずいないのではないか。
 

本作におけるジョーカー

 本作がヴェネツィア国際映画祭でプレミア上映される前、私は「ホアキン・フェニックスの演技は間違いなくジャック・ニコルソンヒース・レジャーのそれと比較されるだろうが、果たして大丈夫なのか」という不安を抱いていたが、プレミア上映後に出てきたレビューはその不安を払拭するものであった。
 ニコルソンのジョーカーをコミカルな悪役、レジャーのジョーカーを悪の化身とすれば、フェニックスが演じたジョーカーは「人間ジョーカー」と言うべきものなのではないか。前2者には人間味をほとんど感じなかったが、本作のジョーカーには人間味がまだまだ残っているように思う。先行例の何れでもないジョーカー像を構築した本作は称賛に値するし、フェニックスの演技はニコルソンやレジャーに引けを取らないものである。
 ただ、本作におけるフェニックスの演技はキャリアベストではないと思う。本作はフェニックスの演技ばかりが目立ち、共演者の演技はほとんど印象に残らない(ジョーカー誕生秘話を描く作品なのだから、そうなるのは仕方ないのだろうが)。役者同士の相互作用が観客に伝わってこないのである。その点、『ザ・マスター』での演技は本作のそれより優れていたと思う。フェニックスの演技が他の演者(特にフィリップ・シーモア・ホフマン)の名演技を引き出し、他の演者の名演技がフェニックスの演技をさらに高めるという相互作用が確かにあった。

ロバート・デ・ニーロの無駄遣い

 本作の欠点を一つあげるとすれば、それはロバート・デ・ニーロの無駄遣いである。フィリップス監督は本作を撮るに際し、『タクシー・ドライバー』や『キング・オブ・コメディ』からインスピレーションを得たようなので、デ・ニーロの起用は元ネタがその2作であることを観客にはっきり伝えるためなのかもしれない。だが、マレー・フランクリンはデ・ニーロに相応しい役だと言えるだろうか。マレーが本作で果たした役割はアーサーを自分の番組で嘲笑しただけである。これならデ・ニーロのような名優を起用する必要はなかったと思う。

 

本作に続編があったなら

 フィリップス監督が続編の製作に否定的な見解を示していることは承知しているが、本作で描かれたジョーカーがDCユニバース入りを果たし、バットマンと対峙したらどうなるかと考えずにはおれない*3。ジョーカーが引き金となった騒ぎで両親が殺されたのだから、ブルース・ウェインバットマン)にとって、ジョーカーは倒すべき親の仇である。しかし、ジョーカーを必要とした人々、つまり、生活苦にあえぐ人々にとって、ジョーカーは英雄であり、ブルースは上流階級に属する搾取者である(ブルースが成人した頃にもジョーカーが英雄視され続けていたなら)。バットマン=善、ジョーカー=悪という単純な二項対立でストーリーを展開することはできない。激闘の末にジョーカーを倒したからと言って、直ちに「正義が勝利した」とはならない。この複雑な構図を一流の脚本家がどう処理するのか見物である。
 聞くところによると、次のバットマンロバート・パティンソンになるのだという。パティンソンと言えば『トワイライト』シリーズが有名でティーンのアイドルという感があったわけだが、近年では『グッド・タイム』や『ハイ・ライフ』での演技が絶賛され、いつの間にか演技派の俳優*4になっていた。そんな彼とフェニックスの演技合戦を是非見てみたいものである。

 

 

*1:私が真実という語に鉤括弧を付けているのは、本作で明かされたアーサー出生の秘密が真実ではない可能性が残されているためである。

*2:ある宗教学者の方が「世の中には宗教家、犯罪者、芸術家、研究者、狂人の何れかになるしか道がないという人がいる」という趣旨のことをツイートしておられたが、アーサーはまさにそのタイプの人間だと思う。

*3:主演のホアキン・フェニックスが続編に出演する意欲を見せているとの報道はある。

*4:俳優は演技のプロなのだから、演技は上手くて当然である。それ故「演技派」という称賛はおかしいように思えるが、他に上手い言葉が思いつかなかったので、やむなくこの語を使用した