「種の論理」VS「場所の論理」(メモ)

 

 Twitterにメモしようと思ったが、長くなったのでここにメモしておく。
 参考:田辺元と務台理作の論争に関する年表(筆者作成)

 田辺元は論文「西田先生の教を仰ぐ」(1930年)を発表した後、師と仰いでいた西田幾多郎の哲学に対する対決姿勢を鮮明にしていく。田辺が矢継ぎ早に西田を批判する一方、西田の方は公の場でその批判に対してほとんど応答しなかった。
 (ただし、西田は柳田謙十郎や務台理作宛ての書簡で田辺の批判が的外れであると主張しており、「あの人は何度言っても分からない」とまで言い放っている。また、西田は「論理と生命」(1937年)の末尾で「種の論理」に対する批判を試みているが、どうにも要領を得ない。同論文が雑誌に掲載された際には、田辺を名指しで批判していたが、単行本収録時に田辺の名前は削除された。何故そうしたのかははっきりしない。)
 「場所の論理」の立場から「種の論理」を批判することも可能だったはずだが、西田はそれをしなかった。ところが、ここでややこしい問題が一つ発生する。実は、西田以外の人物が「場所の論理」の立場から「種の論理」を批判しているのである。その人物とは務台理作のことである。務台は「場所の論理」の立場から独自の社会存在論を構築し、田辺の「種の論理」を批判したのである。

 つまり、田辺元務台理作の間で起きた論争は「種の論理」と「場所の論理」の間で起きた論争であり、本来であれば、田辺と西田の間で起きるべき論争だったと言える。

 ちなみに、西田は務台の田辺批判に賛同の意を示している(1937年6月28日付の務台宛て書簡を参照)。務台の田辺批判を参照することで、西田が田辺の「種の論理」のどこを問題視しており、それを自分の理論でどう克服しようとしていたのかを把握できるはずである。

西田と務台の関係

 田辺と務台の論争を考察する際、西田と田辺の関係は勿論のこと、西田と務台の関係がどのようなものであるかを考察する必要があると思われる。務台は柳田謙十郎のように西田哲学を信奉していたわけではなく、批判的に受容する姿勢を崩していない。それは以下の引用にも現れている。
 「西田哲学に於ける論理の意義について注意すべきは、個体的限定即一般的限定の意味に於て、特殊又は特殊の座とも云うべき存在の基体性が恰も排除されている如くに感ぜられることである。若し真にこの場所の限定に於て、基体となるものの特殊態への結付きが見失われているものとすれば、西田哲学に於ける論理はたしかに発出の論理であり、却って論理を止揚し、一即全を一つの直接態として純粋直観に訴えんとする神秘主義に立つものとの批評は当然の理由を持つものと云わねばならないのであろう。」(務台(2002:238))
 それ故、西田と務台は同じ語句を自己の哲学の術語として使用しているが、その意味するところは必ずしも同一ではない可能性がある。もし同一でないならば、その違いを明らかにしなければならない。

文献

務台理作(2002(1935))「表現的世界の論理」,『務台理作著作集』第3巻,230-244頁,こぶし書房