映画『ザ・ファイブ・ブラッズ』感想 - 「知られざる」ベトナム戦争

  スパイク・リー監督の新作映画『ザ・ファイブ・ブラッズ』を鑑賞したので、いつものように感想を綴ってみたいと思う。ネタバレには注意されたし。なお、この記事を書くに当たっては、リンク先のインタビュー記事を参照した。 
 7000字以上書いてしまったが、一番伝えたいことは「デルロイ・リンドーは神がかり的な演技を披露しているので、映画好きであれば必ず見るべし」ということである。それさえ伝われば、後ははっきり言ってどうでも良いとさえ思う。

あらすじ

 ポール、オーティス、エディ、メルヴィンの4人はベトナム戦争に従軍中、ノーマン隊長の指揮下で金塊の輸送任務に当たっていた。その道中、一行が搭乗するヘリコプターはベトナム軍によって撃墜されてしまった。敵を追い払った後、ノーマン隊長は金塊を祖国で抑圧されている同胞たちのために使うことを思いつき、いつか取りに戻ってこられるよう、金塊を隠すことにした。ノーマン隊長は軍人としても優れていたが、人格者でもあったのである。4人はノーマンからどう生きるべきかを学び、彼を心から慕っていた。ところが、ノーマンは志半ばで戦死してしまい、遺骨も金塊も行方不明になってしまった。

 それから50年の時が流れた。金塊を発見する手掛かりが発見されたとの一報が入ったため、4人は再度ベトナムに足を踏み入れることにした。ポールの息子、デヴィッドが父親を心配してこっそりついてくるというハプニングこそあったものの、一行はノーマンの遺骨と金塊を回収することに成功した。しかし、事はそう都合良く運ばなかった。一行はベトナム戦争がもたらした災厄に苦しめられることになった。

「知られざる」ベトナム戦争

 ベトナム戦争を題材にした映画は多く存在し、『帰郷』(1978年)、『ディア・ハンター』(1978年)、『地獄の黙示録』(1979年)、『ランボー』(1982年)『プラトーン』(1986年)と数え上げればきりがない。しかし、そうした映画史に残るような傑作群ですら見落としていたものがあった。それは黒人の兵士たちである。本作以前、黒人の兵士がスクリーンに登場したとしても、一言二言話せば良い方で、彼らが主要な登場人物として登場することはなかった。スパイク・リー監督は長らくこのような事態を問題視しており*1、本作で黒人のベトナム帰還兵を取り上げることになった。元々の脚本では、白人のベトナム帰還兵が主人公になっていたようだが、リー監督はそれを書き換えたのだという。

  黒人の兵士たちの視点からベトナム戦争を描くことで、本作はベトナム戦争愛国心をめぐる問題に新たな光を投じている。今までの作品でも「自分は国のために戦ったのに、国は自分を気にかけもしない」という怒りは描かれてきたが、それは帰還後のことであった。黒人の兵士たちはそのような怒りを戦場にいる時点で感じていたのである。「自分は国のために戦っているのに、何故国は自分たち黒人の声を聞こうとしないのか」、これこそが彼らが抱いていた怒りであろう。それは本作の冒頭、モハメド・アリが「ベトナム人たちは自分たちを罵倒しないし、リンチしようともしない。それにも拘わらず、自分たちは何故彼らと戦わねばならないのか」と語る映像によって象徴されているように思う。本作の主人公4人もハノイ・ハンナのプロパガンダに耳を傾けているし、キング牧師が白人に暗殺されたという報道を聞くや否や、銃を白人に向けようとした(ノーマン隊長はそんな4人を「憎しみに憎しみで応じてはならない」と諭すのだが)。


 だからと言って、本作は物事を「差別する白人=加害者VS差別される黒人=被害者」という単純な図式に落とし込んでいるわけではない。本作には、さらに2つの対立軸が導入されている。それは「侵略を受けたベトナム人VS侵略したアメリカ兵」と「植民地支配を行ったフランス人VS植民地支配を受けたベトナム人」という対立軸である。
 最初に前者から説明していきたいと思う。本作は差別の被害を受ける黒人が図らずも加害者性を帯びてしまう事態も描き出している*2。本作にはベトナム人も多く登場するが、彼らから見れば、アメリカ兵は自分たちを攻撃してきた侵略者・悪人であり、そこに白人・黒人の別はないのである。つまり、ベトナム人にとって、主人公4人は加害者なのである。ベトナム人からそれを突き付けられたとき、ポールは「ベトコンだって残虐な行為をしたじゃないか」と開き直るばかりで、自らの加害者性を認めようとしなかった*3。その姿勢は物語の終わりまで一切変わることがなかった。しかし、主人公たちは認めずとも、観客には彼らが被害者でもあり、加害者でもあるという事実が突き付けられているのである。
 次に後者について述べる。1887年から1954年にかけて、フランスはベトナムをフランス領インドシナという植民地として支配した。その構造が本作にも登場している。中盤、主人公たちに襲いかかったベトナム人は「隠されていた金塊はベトナム人のものだ」と主張するわけだが、そんな彼らの雇い主、デローシュはフランス人である。仮に金塊を強奪できたとしても、体を張ったベトナム人たちは全ての金塊を自分のものにできるわけではない。デローシュから分け前を貰えるだけである。ここに搾取構造が表現されている。

 

痛みを共有することの不可能性

 主人公4人は一枚岩のように見えるが、実は序盤の時点でその絆に綻びが生じている。その綻びを作った最大の原因は、痛みの共有の不可能性にあると思う。ポールたちは戦場での辛い体験こそ共有しているが、その後の人生における辛い体験についてはほとんど共有していないように思える。かつて関係を持った娼婦(ティエン)を心配するオーティスをポールが馬鹿にするシーンや、事業の失敗を告白するエディに対する他の3人の視線がそれを証明している。オーティスがティエンを本気で心配していると知っていたならば、ポールはオーティスを馬鹿にしなかったであろう。また、自身の経済的苦境を訴えるエディに対する冷淡さを見るに*4、そもそも、自分以外の人間の苦境には関心がないのではないかとすら思わせる。
 さらに言えば、4人は帰還後に直面した困難について、お互いに触れたがらない傾向にある。ノーマン隊長を誤って撃ち殺してしまったポールは兎も角、エディの経済的苦境やオーティスの後悔、メルヴィンの薬物依存*5は共感されやすいように思えるのだが、3人は自分で抱え込んでいる。ポールに「自助グループに参加して、自分の苦しみを吐き出せ」と助言するオーティスですら、自分の痛みを共有しようとしない。この姿勢が痛みの共有をさらに困難にしたことは言うまでもない。

 自分の痛みを他者と共有するには、それを言語化するより外ない。しかし、痛みを言語化した場合、多くの要素が削ぎ落とされてしまう。困ったことに、そこで零れ落ちてしまう何かこそ、自分にとって重要なものであるというケースがほとんどである。また、想像を絶する苦難を経験した場合、それを既存の枠組みで解釈することが困難なため、自分が何を経験したのかを言語化することができないということもある。新しい認識枠組みを自分で構築するという道もあるにはあるが、それを成し遂げたとしても、やはり重要な何かが失われてしまう。ここに、痛みの共有にまつわるジレンマがある。4人はこのジレンマに悩まされており、敢えて語らないor言語化しない道を選んだのではないかという気がする。

同胞の拡大

 本作はベトナム戦争が残した傷跡をまざまざと見せつけるわけだが、結末は目を背けたくなるような現実の中にも、希望が存在することを示唆するものになっている。
 ノーマン隊長は同胞たちのために金塊を使って欲しいと願っていたが、結局、金塊はオーティス、デヴィッド、ヘディ、ヴィンの4人の手に渡る。オーティスとデヴィッドは金塊を同胞たちの救済に使ったようだが、ヘディは金塊を使ってベトナムでの地雷撤去活動のための基金を創設する(ヴィンが金塊を何に使ったのかは不明)。これはノーマンの遺志に背くことのように思えるが、黒人もベトナム人も虐げられた側の人間であることに変わりはない。先の4人は「同胞」の中にベトナム人を包摂したのである。
 さらに言えば、4人の中にヘディが加わったことも重要に思える。白人のヘディはフランス出身のお嬢様であり(ただし、所謂「意識高い系」ではなく、本気で地雷除去に取り組んでいる)、ベトナム人のヴィンや黒人・中下流層のオーティスとデヴィッドにとって、ヘディは虐げる側の人間である。しかし、金塊を媒介にしているとはいえ、4人は協力してデローシュとの戦いに挑んだ。デヴィッドがデローシュを撃ち殺したとき、足を負傷した彼を支えたのはヘディだった*6。このシーンは虐げられた者たちが連帯するだけではなく、虐げた側の人間と虐げられた者たちが連帯する可能性をも示唆しているのではないか。
 ベトナムに残る傷跡がそう簡単に癒えるわけはないし、ポールたちが直面した困難も一朝一夕に解決できるようなものではない。先述の3つの対立軸も存在し続けるであろう。しかし、オーティス、デヴィッド、ヘディ、ヴィンが連帯したことはそうした対立を乗り越える道が存在する可能性を示唆していると思う。ノーマンの精神はブラッズだけではなく、デヴィッドのような若い世代にも確かに伝わったのである。これこそが希望である。
 勿論、この希望はあまりにも弱々しい希望である。社会の分断が進む現状を見れば、虐げられた者たちの連帯、ましてや、虐げる側だった者と虐げられた者たちの連帯は絶望的に思える。利害や遺恨を乗り越えるのは不可能に近いことのように思える。しかし、現状を少しでも好転させるにはそれに賭けるしかないし、100%不可能というわけでもない。本作のラストシーンにはそういうメッセージが込められていると思う。

回想シーンを60代の俳優に演じさせた意味

 本作にはApocalypse Nowという垂れ幕が登場し、『地獄の黙示録』を意識した作品であることが誰にでも分かるようにしてある。また、トランプ大統領の演説シーンが挿入されており、本作が現代にも通じる問題を扱っていることがはっきりと示されている。これだけ見ると、リー監督は観客をほとんど信頼していないのではないかと思えるが、別の箇所では観客に対して並々ならぬ信頼を寄せている。リー監督は60代の俳優たちに回想シーン、つまり、主人公たちの若い頃をも演じさせている。しかも、デルロイ・リンドーは白髪交じりの髭を剃っておらず、どう見ても20代の青年には見えない。観客の想像力に信頼を寄せていなければ、このようなことはできないはずである。

 鑑賞中、私はぱっと見矛盾するように思える事態をどのように解釈すべきか迷ったが、自分なりの回答を得たのでここに記しておく。

 リー監督は前作の『ブラック・クランズマン』でもラストにトランプ大統領の映像を挿入し、レイシズムは決して過去の話ではなく、現在進行形の話であることを明示している。リー監督にとって、その事実はいくら強調しても強調しすぎることはないことなのであろう*7。それ故、本作においても、現代のアメリカを意識した作品であることが明示されたのだろう。
 また、Apocalypse Nowという垂れ幕が登場したのも上と似たような理由、つまり、『地獄の黙示録』を意識していることを強調するためではないかと思う。リー監督の作品を積極的に見るような人間であれば、『地獄の黙示録』がどのような作品であるか知っているだろうし、万一知らなかったとしても、自力で調べるような気はするが、リー監督としては、本作が先行作品に異議を申し立てる作品であることをはっきり宣言したかったのではなかろうか。

 それでは、60代の俳優に主人公の若い頃を演じさせた理由は何だろうか*8。出来上がった作品から推測するよりないわけだが、リー監督はベトナム戦争が4人の中では終わっていないことを表現したかったのではないか。彼らにとって、戦時中に経験したものは過去のものであるだけではなく、現在も心のどこかで繰り返し経験していることであろう。ポールがノーマン隊長の幻影(霊?)に苦しんでいたり、4人が爆竹の破裂音にすぐ反応して地に伏せたりするのはその証拠である。 

露骨すぎる救済

 本作が2020年を代表する作品になることは間違いないだろうが、欠点が一つあるのでそれを指摘しておきたい。それはポールの救済が露骨に過ぎることである。救済は以下のように描かれる。
 ジャングルを一人突き進むポールは、道中、毒蛇にかまれる。そして、ポールが樹上を見上げると、金塊が光に包まれている。光も蛇も宗教的なモチーフであり、これからポールに救済が訪れることを露骨に示している。その直後、ポールはノーマンの霊魂(幻影?)と邂逅し、「あれが誤射だったことは分かっている。もう苦しむな。」と言ってポールを抱きしめる。『ブラックパンサー』のチャドウィック・ボーズマンがノーマンを演じているせいか、神々しさが一層増していく。この瞬間、ポールにとってのベトナム戦争が終わり、彼は安息を得たのであった。

 ここまではっきり描写する必要があったのだろうかと思わざるを得ない。ノーマン隊長は人間を超越し、神になったかのように見える。そこには、キング牧師の死を聞いて必死で怒りを抑えこんでいたノーマンの姿は最早ない。ノーマンから人間性を剥奪してどうするのか。また、私は宗教哲学をかじっているので、救済があっさりなされたことに一切違和感を覚えないが、宗教的なものに何ら関心を持っていない人が見れば、「50年以上抱えてきた苦しみから一気に解放されるなんてことがあるのか」という疑問を抱くであろう。ましてや、その前のシーンで、ポールは第4の壁を突き破ってまで行き場のない憎悪を吐露しているのだから。

デルロイ・リンドーの名演技

 多くの人が触れているので、改めて触れる必要もないかと思ったが、やはりデルロイ・リンドーの一世一代の名演技に触れないわけにはいかない。これこそが本作を2020年を代表する1本―2020年代を代表する作品と言っても過言ではないだろう―たらしめているのだから。
 極めて高い演技力を持った俳優といえども、人々の印象に残り続ける名演技を披露するのは容易ではない。例えば、メリル・ストリープは20回以上アカデミー賞にノミネートされている当代随一の名女優だが、そのうち人々の記憶に残っている演技はいくつあるだろうかと考えれば良い。映画史に記録されるような名演技を披露するには、本人の努力を超えた何かが必要なのであろう。それがやってくるのは生涯に1回かもしれない。
 デルロイ・リンドーは見事その何かを掴み取った。本作におけるリンドーの演技は時代精神にまで到達しているのではないかという気さえする。あれほどの迫力はまず出せるものではない。本作の上映時間は2時間を超えるわけだが、その長さを長いと感じさせないだけの緊張感を作品にもたらしている。リンドー演じるポールはPTSDに苦しむ黒人でありながら、トランプ大統領の熱烈な支持者でもある。また、家族を愛したいと心の底から願いながらも、妻が出産中に亡くなったことをきっかけに、息子に憎しみを抱くようになった人間でもある。ポールは心の中に矛盾と深い悲哀を抱えたキャラクターであるが、リンドーはその矛盾を矛盾のまま表現しつつも、ポールという人格に統合をもたらしている。深い悲哀を表現してはいるが、誰からも同情されるような人間にもなっていない。
 終盤、ポールが第4の壁を乗り越えて行き場をなくした怒りをぶちまけるシーンがあるわけだが、あのシーンは圧巻の一言である。独白シーンは往々にして自己陶酔が出やすいのだが、リンドーはポールが抱える焼け付くような痛み・怒りをそのまま観客にぶつけてくる。それでいながらにして、はっきりと観客にぶつけているわけでもない。あくまでも、どこかに怒りを発散しているのである。どこかにぶつけた怒りがたまたま観客に当たっているような感があるのだ。
 本作におけるリンドーの演技はキャリアベストであろうし、映画史に記録されるようなものであろう。アカデミー賞の受賞は間違いないと思うし、主演か助演のいずれでプッシュされるにせよ、彼が受賞するべきである。

 

まとめ

 『ザ・ファイブ・ブラッズ』はこれまで描かれてこなかった側面を取り上げ、現実の社会に対して力強いメッセージを打ち出しつつも、娯楽としての魅力を一切減じていない。スパイク・リーの手腕にただただ感服するばかりである。また、デルロイ・リンドーの演技は素晴らしいという言葉では言い尽くせないほどのものであり、映画史に記述されるべきものである。タイムリーな作品ではあるが、時代を超えた普遍性を有する作品に仕上がっている。

 

 



 

 

*1:子供の頃、リー監督がベトナム戦争を扱った映画をテレビで見ていると、側にいた父親が「俺たち黒人も戦場で戦ったというのに」と漏らしたことがあった。この体験は監督の脳裏に焼き付いたようである。

*2:『ルース・エドガー』も黒人が加害者性を帯びてしまうような事態を描写しているそうだが、この記事を執筆した段階で、私は同作を鑑賞できていない。それ故、同作に対する言及は控える。

*3:念のために付け加えておくが、私はそれを批判するつもりはない。

*4:ノーマン隊長は金塊を同胞を救うために使おうとした。当然、エディも同胞の中に入るはずだから、エディが自分の苦境を脱するために金塊の一部を使用したとしても、ノーマン隊長の遺志には反しないはずである。それなのに、他の3人(特にポール)はエディに軽蔑の視線を向けた。

*5:メルヴィンは痛み止めに依存しているようだが、そうなったのが戦争体験によるものなのかは明示されていない

*6:中盤、デヴィッドがヘディを縛り付けたことを想起して欲しい。正気を失ったポールの命令があったとはいえ、ヘディにとって、デヴィッドは自らに害をなした人間である。ヘディはそうした遺恨を乗り越え、デヴィッドに協力したのである。虐げた側と虐げる側の区別は明瞭に付けられるものではなく、重層的なのである

*7:ゲット・アウト』公開時に知ったことだが、アメリカ国民の中には、黒人のバラク・オバマが大統領に選出されたことを以てレイシズムは終わったと考える人が一定数いたようである。彼らは今でもそう思っているのだろうか?

*8:前年に配信された『アイリッシュマン』のように、CG処理で俳優の風貌を若返らせるという方法もあったわけだが、予算不足で断念せざるを得なかったようである