読書メモ:三宅剛一『学の形成と自然的世界』(1940年)①序(1-4)

 近頃、私は京都学派の哲学を読解することに対する意欲を失いつつあるので(別の問題に対する関心が高まったためである)、読書メモを作成・公開することで少しでも意欲を取り戻したい。読書メモという体裁を取るため、私以外の人間の役に立つかどうかは分からないが、取り敢えずやり遂げたいと思う。 

三宅剛一『学の形成と自然的世界』について

 三宅剛一の『学の形成と自然的世界 -西洋哲学の歴史的研究-』(1940年)は京都帝国大学に提出した博士論文を元にしたもので、三宅の主著の1つとして知られる。本書を中心とする哲学史研究の蓄積は晩年の主著『人間存在論』(1966年)で大いに活用され、師匠である西田幾多郎や先輩の高橋里美・田辺元の哲学とは異なる独自の立場の構築に至った*1
 ただし、本書の意義はそれに尽きるものではない。三宅の友人でもあった下村寅太郎が「鬱然たる大作であって古代より近代にいたる科学哲学の根本問題を歴史的に考察し、博渉と思索とを追究徹底した労作であり、田邊元の論理的方向に対し、歴史的方向において特色をもち、我々の科学哲学の第二の記念碑的業績である」と評しているように(著作集第12巻528頁)、日本の科学哲学に新しい流れをもたらすものでもあった。
 戦前期、日本の科学哲学は新カント派の影響を強く受けており、その関心は専ら科学の基礎付けにあった。それに対し、三宅は哲学史研究を通して科学について考察し、「科学を媒介とした哲学」への道筋を切り開こうとした。
 科学哲学が科学の基礎付けや科学についての哲学に留まらず、科学を媒介とした哲学にまで至るというのが京都学派の哲学の特徴である。この点において、西田幾多郎田辺元、三宅剛一、下村寅太郎の科学哲学は一致している*2

序(1-12)

「自然的世界」の意味(1-4)

  本書で三宅がいうところの「自然的世界」は歴史的世界に対立するものではなく、経験に直接与えられるものでもない。「自然的世界」とは歴史的な世界をも包摂する全体的世界のことであり、古代ギリシア哲学における「コスモス」やカント以前の近世形而上学における「世界」に通じるものである。(1)

ギリシア哲学において、コスモスは学と密接な関係にある。これはコスモスの特性でもあり、コスモスと密接な関係にあることが古代ギリシアにおける学の性格を規定している。また、ギリシア哲学が世界を問題として把握するようになったのは、一と多、限定と無限定、コスモスとアペイロンのような原理的問題が哲学の問題として扱われるようになったからである(1-3)。

 中世哲学・近世哲学は古代ギリシア哲学と同様、世界と無限の関係を問題とするが、その問題の見方は古代ギリシアのそれとは異なる。学の形態と性格も古代ギリシアと中世・近世では異なる。近世の学は世界と学ではなく、人間と学という観点から考察すべきだという考えもあり得るが、「学はただ科学に限るものではなく、そうしてカント以前の哲学がコスモロジカルだといわれる意味をも考え」る必要がある*3
 「カントのコペルニクス的転向ということが言われるが、主観の構成によって成り立つ自然界を、カントが現象だとしたことをも忘れてはならない」*4。また、19世紀の哲学の視点だけではカント哲学の実態を正確に理解できない。カントやライプニッツの哲学を真に理解するためには、「彼等の哲学がそれに根ざしているところの西洋哲学の基本的伝統を十分に理解しなければならぬ。彼等の哲学に於ける独特の思想そのものも、歴史的伝統との関係に於てのみ正当に意味づけられ、評価せられる」。本書はカント哲学における世界の問題に焦点を当てる。この問題は観念論的カント解釈において見過ごされがちだが、カント哲学の理解に重要な意味を持つ(3-4)。

 

 

*1:『学の形成と自然的世界』に代表される数理哲学史・科学哲学史の研究と『人間存在論』に代表される三宅独自の立場がどのように結びついているのかという問題が手つかずのまま残されているが、この問題は三宅の哲学全体を理解する上で避けては通れないと思う。

*2:「科学を媒介にした哲学」というのは下村の表現だが、それが何を意味するのか、そして、どんな現代的意義を有するのかについては別途考察が必要である。下村の田辺論はその際の手引きとなろう

*3:学は科学だけを意味するものではないとはどういう意味か。何故カント以前の哲学がコスモロジカルだとみなされることの意味を改めて考える必要があるのか

*4:何を意味するのか