読書メモ:三宅剛一『学の形成と自然的世界』(1940年)②序(4-12)

前回へのリンク← →次回へのリンク

数学と哲学(4-)

三宅は数学の基礎を哲学的に考察する中で、無限への関係から世界を考えるようになり、学の問題もそういう方面から考えていくようになった。
所謂「数学の基礎危機」は無限の問題を中心に発生した。「無限多の対象領域が、我々がそれを限定する何等かの仕方をもつと否とに拘らず、それ自身に於て、はじめから、完全な体系的限定性をもつという想定が、疑われ批判せられるに至った」。集合論のパラドクスが生じたのは、集合の全体の限定性を素朴に想定したからである(4-5)。

・全体は何らかの方法で全体として統一されていなければならないが、我々が認識している統一の方法は果たして全体を統一する方法なのか
・全体を統一する方法と部分を統一する方法が同じ場合、その全体は本当に全体なのか
上の2つの問いが、無限を考慮に入れるとき、全体の限定性・体系性の可能に関して容易ならぬ問題をなす。それは数学の基礎に関する哲学的考察からも分かることである。
世界は何らかの構造組織か秩序を持つ全体である。故に、集合論における全体と同様、世界においても、世界がどのように統一されているのかという問題が生じる。
カントは人間の認識の仕方との関係において、世界の問題を考察した。世界についてのアポリアが対象論理的立場にとってのみ存在すると考える人があるとすれば、あまりに楽天的かつ安易である(6)。

現代の数学基礎論は全体のアポリアを専門的に限定し、形式的技術的に処理しようとしている。そうした研究は重要な手掛かりにはなるが、問題の哲学的解決の方法にはなり得ない(7)。

哲学史を研究する意味(7-8)

古典的哲学は全体のアポリアをその始元性において捉え、それを具体的かつ本質的なやりかたで考察している。哲学史研究は、対象とする思想が問題の終局的解決をもたらしているか否かに拘らず意義を持つ。
現代哲学として流通しているものは、近い過去のものでしかない。古典の研究は近い過去への囚われから我々を解放して、事物をその始元的本質性において観ることを可能にする

科学哲学・数理哲学のあるべき姿(8-9)

哲学は究極的なものを問う学問であるが、19世紀後半以降の数理哲学・科学哲学は究極性・全体性への関心が乏しい。それらの多くは自らが依拠する近代の常識に対する徹底的な反省も怠っている。科学認識の進歩を記述するだけの科学史研究も底が浅い。
知識し学問する人間の直面するところの本質的状況、人間の学的理性と世界との根本的関係は、特殊科学の時々の成果や、局部的認識の進歩にと共に変化するものではない。哲学はそうした本質を考察していくべきである。有限と無限の問題はこの本質に関わる。

哲学史研究を遂行する際の三宅の姿勢(9-12)

三宅は本書において、「過去の哲学の歴史的事実性を曲げることなしに、出来るだけ忠実に原意を捉えようと努めた。歴史的思想の連関を無視して、印象主義的に、あるいは主我的に、自分の意に適するものだけを引き抜いてくるようなことは避けたいと考え」、「できるだけ過去の哲学そのものの立場に入り込んで考え、理解する」よう努めた。また、「過去の哲学者の説をただ叙述するのではなく、過去の哲学者の認識を認識したいと考えた」。
文献学的な客観性は重要だが、それにも限度がある。過去の哲学を解釈するには、自ら過去の哲学の中に入ってその核心を掴む必要がある。単に文献学的な考察を重ねても、正しい解釈は生まれない。


日本の哲学者が西洋哲学に対して徹底的な批判を試みているのは良いことだが、そのためには、西洋哲学を西洋哲学として厳正に理解する必要がある。西洋哲学を自分の考えに引き寄せて勝手に解釈したり、哲学史の流れを無視して解釈したりすべきではない。
西洋哲学をそのままに厳密に理解しようとする努力は、単に西洋哲学について知るに留まるものではない。「成立の地盤と伝統を異にするものとの真実なる会逢によって、自己の思想を錬磨し、真の意味の反省を得る」ことにまで至らねばならぬ。
「自己に甘えた節制なき主観性に陥る危険から、我々の哲学を護るためにも、そのような鍛錬と反省が必要であると思う。」