読書メモ:納富信留ら編『世界哲学史1―古代1 知恵から愛知へ』序章+第1章

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 下村寅太郎はしばしば世界哲学の可能性に言及し、学習院大学在職中に講じていた「世界史の哲学」はその下村なりの展開だった可能性があるが、それがどのようなものであったかを知る術は現時点では乏しい*1。このような状況の中、別の方向から世界哲学を展開しようという動きが現れた。それが2020年にちくま新書から刊行された『世界哲学史』である。私はこの試みについて知ることが下村の仕事を評価する上で不可欠であり、もしかすると、下村の先駆性をも証明できるのではないかという考えの下、読書メモを作成することにした。
 このような関心に基づいているため、メモを取って丁寧に読むのは世界哲学の大枠を示した総論的な章に限られる。予め了承して頂きたい。

序章:納富信留「世界哲学史に向けて」(11-22頁)

「世界哲学」とは、西欧とアメリカを中心に展開されてきた「哲学」という営みを根本から組み替え、より普遍的で多元的な哲学の営みを創出する運動のことである。人類全体が共有するべき本来の「哲学」を再生する試みである(11)。
世界哲学の構築を進めることで、専門分化が進んだ日本の哲学界でも相互交流・共同研究が促進されるだろう。
「世界哲学史」(A History of World Philosophy)は哲学史を個別の地域・時代・伝統から解放して「世界化」し、世界哲学を「歴史化」することで具体的に展開する試みである*2

これまでの「哲学史」は西洋哲学史のことであった。ヘーゲルのように東洋哲学を扱った者もいるにはいたが、東洋に対する偏見が保持されていた。しかし、哲学に相当する思想伝統は世界各地にある。哲学を世界化するには、こうした非西洋の哲学にも目を向ける必要がある。
「西洋哲学を主に19世紀半ばから導入した日本は、東アジアではいち早く西洋哲学を受容し、西田幾多郎らが先導して独自の日本哲学を作り出した。他方で、古代から儒教道教、仏教、神道といった東アジアの伝統を培ってきた背景があり、その多面性は「世界哲学史」を考え発信するポジションとして絶対である。」(16)

哲学史である以上、世界哲学史も何らかの方法で1つのまとまり・流れを記述するものでなければならない。そのためには、各思想を子細に検討し、それらに共通する問題意識・思考の枠組みを抽出し、それらを比較しながら歴史的に考察していく必要がある。
この方法は比較思想と同じものではない。世界哲学史の方法は「二者か三者の間で行われる比較検討ではなく、最終的には世界という全体の文脈において比較し、共通性や独自性を確認」するものであり、各思想が「世界哲学」としてどのような役割を担い得るのかが考察される(17-18)。
「世界哲学としての日本哲学という課題において、日本で展開された思想が、翻訳不可能なエキセントリックさにおいてではなく、独自であるがゆえに世界で評価される哲学として再発見されるはずである。「わび、さび、もののあはれ、いき」といった言葉は、世界哲学の文脈で初めて真に哲学的な概念」となる。
cf.井筒俊彦『意識と本質』(1983年)
思考構造を共時的に比較する道を提示した。

第1章:納富信留「哲学の誕生をめぐって」(23-45頁)

1.「枢軸の時代」(23-29頁)

問うべき2つの問題

・哲学は何故西洋中心となったのか
・哲学が日常生活から乖離した高尚な学問とみなされているのは何故か

カール・ヤスパースによる「世界哲学」の提唱は「西洋の没落」の雰囲気の中でなされたが、彼はそれを悲観的に見るのではなく、世界哲学の夜明けとして積極的にとらえようとした。ヤスパースも結局西洋哲学の枠を脱却しきれていないという批判はあるにせよ、「枢軸時代」という概念を提示した意義は大きい(28-29)。

2.始まりへの問い(30-36頁)

ギリシア哲学は西洋哲学の始まりだけではなく、始まりや原理を追求し、それにこだわる特異な思考法の始まりでもある。今日の学問における独創性や原著者を重視する傾向も、ギリシア哲学に由来する。
「始まりを問う思考法は、現在あるあり方に対して、特定の、通常は一つないしは少数の源泉を想定して、そこから一つの系譜や発展として出来事の全体を捉えようとする」。この思考法に基づき、西洋哲学史古代ギリシア哲学に端を発する1つの流れとして記述されてきたが、それは非西洋の排除につながった。
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だからといって、始まりを問う思考法を安易に廃棄すれば良いということではない。

3.哲学への問い(36-45頁)

現代日本では、京都学派によって日本哲学が成立したとみなす考えと道元空海をも哲学者とみなす考えが共存しているが、これは「哲学とは何か」をめぐる西洋との対決の産物である。日本と同じ東アジア圏に属する中国や韓国にも同様の事態が存在する。
「世界哲学」は人類全員のための哲学であり、排除される人々が出てはならない。
愛知(フィロソフィア)は真理を目指して知を求め続ける人間のあり方を意味しているのだから、それは古代ギリシアを超えた普遍性を有するはずである。
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ここで「普遍性」の意味が問題になる。哲学が時代や地域を越えた普遍的な営みであるならば、非西洋的な思考が哲学から排除されるのは矛盾である。また、普遍性の追求を哲学の本質とみなし、普遍性を追求していないという理由で非西洋的な思考を排除するのは、普遍性を欠いた思考ではないのか。

哲学の本質は普遍性を求めることにあるというが、西洋哲学においてすら、ポストモダニズム相対主義のように普遍性の追求に批判的な哲学が登場している。
分析哲学が哲学界を席巻し、哲学の多様性が縮減されていくという現状。

「哲学の誕生」を検討するのは、ギリシア起源の哲学観を相対化しつつ、インドや中国といった並行する哲学伝統を同じ土俵で評価する基盤を確保するためである。それが「世界哲学史」の意義であり、私たち自身の哲学の可能性である(44)。

*1:現時点で利用できる資料は、著作集第10巻に収録されている論文「世界史の可能根拠について」と学習院大学での最終講義くらいである。京都大学に保管されている下村の遺稿にも「世界史の哲学」に関する資料が含まれている可能性があるが、遺稿は未整理のままで一般人が気軽に利用できる状態にない

*2:納富氏は「世界哲学史」を日本が先導すべきプロジェクトだとみなしておられる。日本では各地域の思想研究が蓄積されており、そうした学知・専門家を総動員して全体像を描出することで、世界哲学の構築に大きな寄与を果たせるのではないかとのこと(同書294頁)。