読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第1編第1章① 11-26頁
第1編:自覚的意志の倫理
第1章:西田哲学の発祥(11-39)
「数十年にわたる長き哲学的思索の過程を通じて、わが西田哲学の前身の歩みは一瞬として停止する時をもたなかった。一つの論文の出るごとに新たなる視野の展望が開かれ、一つの著書のあらわるる毎に実在の深部が掘り下げられて、その限りなき発展と不断の転回とはついに読者をして此の哲学の中核が果して奈辺にあるかを見失わしめる下と思われるほどに動的なるもの」である(11)
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西田哲学の根底には終始変わることのない深い個性的生命の自己同一的要求が存在する。西田哲学は根源的な生命の全体的要求による自発自展的分化として必然的に形成されたものである。
『善の研究』(1911年には西田哲学のその後の展開が萌芽として存在すると言える。「西田哲学其後の体系的発展の全過程は、実に「善の研究」に於ける純粋経験論の自発自展的な行程として、其の必然的な帰結を追うたものである」*1。
後期の西田哲学から見た純粋経験論の要点
柳田は純粋経験論がそれ以降の西田哲学の発展においていかなる意義を有するかを論じるが、純粋経験論の実践哲学としての意義にはほとんど触れない。
1:純粋経験論は合理論と非合理論を内に包んで越える超合理的な直観哲学の体系として展開された(13-18)。
『善の研究』における知的直観とは、意識体系の発展上における大なる統一の発現である。
越えるとは越えられたものを内に包むことである*2。
※前期の「主客未分の純粋経験」から後期の弁証法的思考への移行は大きな転換だが、そこには一貫して個性的自己同一的要求が根底にある。
※判断が主語と述語の単なる結合の上に成立するのではなく、一つの命題を形成する根底となる所の全体的経験の分化であるという思想は、後期西田哲学において重要な意味を持ってくる。
2:純粋経験論は絶対客観主義の哲学である(18-22)。
絶対客観とは「主観が主観であり客観が客観である所の対立の全体性がその弁証法的相互限定的性格に於てそのままに(所謂絶対矛盾の自己同一として)握まれる処の根源的無制約的」なものである*3(18)。
純粋経験は時間・空間・個人という枠を超越している。
内的自己や主観的精神は微弱なる精神でしかない。真に深い精神は宇宙の真理に合する宇宙の活動そのものであり、常に自己を滅却する精神である。自己という個人の主観に捕らわれている限り、人間は精神の客観的能動性に到達できない。
知識も意志も感情も真に客観的であるべきものならば、我々はいつも経験の根底に還る必要がある。
※現実の自然は主客を共に内に含んだ意識の具体的事実であるという考えは、後期の「歴史的自然」という考えと結びつく。
3:純粋経験論は主意主義的思想である(22-26)。
「純粋経験が主客未分なる意識の根源的統一であるということは単にそれが認識主観と認識客観の統一であるということを意味するばかりでなく、更に深くは実在其者の根源的統一として意志の統一であることを意味する」(22-23)
純粋経験の事実的統一は知即行として本来不二なるものである。
意志における欲求も知識における思想も、理想が現実から離れている状態である。一方、意志の実現や真理の極致はそうした不統一の状態から純粋経験の統一状態に達するという意味である。
意識は分裂より統一に達しようとする能動性であり、知識よりもより根本的な意識体系である。統一作用における時間的動性の中心である。
すべての理性法則の根底には、常に意志の統一作用が働いている。
知識における真理と実践における真理は同一のものでなければならない。
「我々は何をなすべきか、いかなる生に生き、いかなる死を死すべきかの問題を明かにせんがためには、世界と人生の真実が何であるか、実在の真相如何の問題を同時に究明せざるを得ない」(25)
我々の意識は終始能動的であって衝動を以て始まり、意志に終わるわけだが、この意志こそ純粋経験の事実としての実在の根本統一力である。
※後期の西田哲学は単に主意主義とは言えないほど深く広い境地に達しているが、「歴史的世界をば作られたものより作るものへの行為的直観の世界として見る歴史的創造の論理の底には、尚何処かに深く主意主義の面影が残されている」。「主意主義は決して否定されたのではなく、包まれたのである」