読書メモ:中村雄二郎「西田幾多郎と小林秀雄」(1987年)

 引き続き中村雄二郎の西田哲学論を読んでいくわけだが、今回取り上げる論文は「西田幾多郎小林秀雄」である。同論文は元々フランス語で執筆されたものであり、1986年11月18日にソルボンヌで行われた講演で読み上げられた。その後、『新潮』の1987年2月号に日本語訳が掲載され、同年に出た単行本『西田哲学の脱構築』に収められた*1。この論文では「問題群としての西田幾多郎」で触れられた自己や純粋経験の問題がより詳しく論じられている。

はじめに(159-161)

中江兆民は「我日本古より今に至る迄哲学無し」と述べたが、何故それは文学にも言われないのか。近代日本において、哲学には文学に比してハンディキャップがある。
ハンディキャップが生じた理由は2つ。1つ目は西洋哲学の方法を習得するのが困難だったこと。2つ目は「言語と区別された意味での論理」のうちに哲学を閉じ込めすぎたこと。
後者のために、日本では哲学から思考の自由さが失われ、具体的な現実との接点も希薄になった。

西田幾多郎小林秀雄には<経験>と<自己>の問題を扱ったという共通点がある。
しかし、これまで西田と小林の共通点について深く考えられたことはなかった

1:北村透谷と西田(161-165)

日本における近代的自我の2つの側面
・西欧的な近代的自我が日本という異なる文化的土壌では根付きにくく、表面的なものになった
・表面的な自我の背後に深奥の自我、真の自己とも言うべきものが求められた
北村透谷による真の自己の探求は彼個人の思想的再生に留まったのに対し、西田幾多郎による真の自己の探求は哲学の厳密な概念知にまで到達した。
参禅が西田の内的生命の探求に大きな役割を果たしたのは間違いないが、それを以て純粋経験の起源を参禅体験に求めるのは早急である。

2:<純粋経験>から<歴史的身体>へ(166-173)

「個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである」という言葉は真の意味で哲学的な発見の名に値する。
西田の純粋経験説によれば、自然と精神は異なる2つの実在ではなく、パースペクティヴの相違によって区別されるものでしかない。
西田による善の考察は深い生命的欲求にまで掘下げられるが、日常生活の具体的な問題をほとんど通り越して宗教の問題に帰着させられている。これは性急に過ぎる。宗教の問題は最後に言うべきことではなかったか。

中期の西田哲学では、身体を叡智的性格を宿すものの表現、すべての実在を表現化するものと解するが、これは大胆な発想である。古代ギリシア的な身体観やデカルトのそれとは異なり、ニーチェの身体観と近い。

行為的直観は純粋経験論を発展・具体化させたものである。前者は後者の持つ観想的性格を脱し、実践を含む視点を打ち出している。

西田哲学における<経験>や<自己>を問題にするとき、『善の研究』の純粋経験や真の自己のみを扱う傾向がある。この結果、それらの観想的・非社会的な性格が強調されてきた。
しかし、これは誤りである。中期や後期の西田哲学、つまり場所や行為的直観、歴史的身体の概念を参照するなら、西田哲学における<経験>や<自己>は動的かつ開かれたものになる。
逆対応はわれわれの自己を無限なる生命の働きとしての神が世界に内在してくる先端として考えるもので、宗教的自己についての捉え方としては実に優れている。

3:<社会化された私>と小林の西田批判(173-178)

小林は自己や経験の問題を西田以上に洗練された形で取り上げた。
小林は西田を<本当の思想家>と評価してはいるが、<健全な無遠慮な読者>を欠いたが故に外国語とも日本語とも言えない文章で書かれた<奇怪なシステム>を構築してしまったと批判する。この批判は鋭い。小林は西田哲学の対話可能性を疑問視したのである。
小林は自我の解体を特定の時代現象ではなく、自我(自己)を考える際の本来の出発点として捉え直す。

4:<無私の精神>と母親の思い出(178-183)

小林は自我の解体や自意識の病を出発点に自己の問題を考察し、西田は純粋経験を出発点に自己の問題を考察した。両者は出発点こそ異なるが、その到達点(小林は心身一如・無私、西田は主客未分(前期)→主客合一(後期))は近似している。
小林は経験を生命力の発現と捉えた。小林が日常の具体的経験に即した知、常識を称揚するのも、生命力の豊かな権限として経験を捉えているからである。

おわりに(184-186)

要点
・西田と小林は生涯を通して経験と自己を問題にしたが、経験と自己の問題は歴史と身体の問題に収斂していった。ただし、西田は歴史と身体を歴史的身体として直接結合させたが、小林は「思い出」を媒介に歴史と身体を合一させられるとした。

・西田と小林は内的経験の直接性に依拠して思考し、その思想は内面性の現象学とも言うべき性格を有する。ただ、西田は内的経験の直接性に依拠したまま、その思考に歴史的世界を取り込もうとしたため、弁証法が導入された。一方の小林は美的世界こそ内的経験の直接性に依拠して思考したが、現実生活について思考する際は具体的な常識を重視した。小林の内的経験の方が日常経験に開かれていると言える。

・西田と小林は無私や自己が無になることを究極的な自己のあり方として捉えた。ただし、西田においては、自己は場所概念を通して概念化され、相対無の場所や絶対無の場所として把握された。一方、小林は無私を意識のレベルに置きつつ、それを越えるものを謎として感じ取るという理解をした。

日本の哲学はもっと<無遠慮な読者>をもつべきであり、言語表現を工夫すべきである。

*1:中村の西田哲学に関する論考は『中村雄二郎著作集』第7巻にまとめられているが、この論文は紙幅の関係で省かれた