読書メモ:中村雄二郎『西田幾多郎』(1983年)第1章

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 中村雄二郎は「問題群としての西田幾多郎」が好評を博したことを受けて、問題群という手法を使って西田哲学を読み解く作業を更に進めた。そのまとまった成果として最初に世に出たのが『西田幾多郎』(1983年)である。このメモを作るに当たって久しぶりに読み返しているが、中村が提示している論点の多くは鋭いものが多いように思う。中村は当時でさえ忘却されていた重要研究に目を通した上で西田哲学を読解しており、「論点が提示されているだけで、その論点に対する中村なりの思索が乏しい」という批判はまだしも*1、「好き勝手に西田哲学を読解した」という批判は的外れだと思われる。
 なお、このメモでは『中村雄二郎著作集』第7巻に収録されている版を読み進めていく。

第1章:日本の<哲学>

1:<日本に哲学なし>(7-16)

現代ほどものを考えるための基軸が失われ、基軸としての哲学が強く求められているにも拘らず、哲学とは何かがはっきりしなくなった時代は少ない。だからと言って、「哲学は本当に根源的な思考・無前提の知なのか」という問いを無視することはできない。この問いに真剣に向き合わない限り、哲学は活力・創造性を取り戻せない。
この問題は全ての国に存在するわけだが、日本では事態が一層複雑である。と言うのも、日本ではもう一つ別の問題が存在するからである。それは「日本の伝統的な諸思想のうちに<哲学>の名に値するものがあったか」という問題である。この問題が先の問題と結びついて事態を複雑にしている。
西洋哲学の普遍性は「論理的な学問知」であることに由来するが、日本思想は論理性が弱いとされる。

中江兆民「我日本古より今に至る迄哲学無し」(1901年)
中江は日本における哲学の可能性を否定しようとしたのではなく、日本に哲学が根付くことを願っていたが故に敢えて厳しい自己批判をした。
※中江の身体論は現代の身体論(活動する身体)に通じる先駆性を有する。
興味深い考えを提示したとはいえ、中江自身は日本に哲学を打ち立てることができなかった。
日本に哲学を打ち立てた人物こそ西田幾多郎である。

2:問題群としての<西田幾多郎>(16-29)

中江兆民と西田(16-20)

第四高等学校に在籍中、西田幾多郎中江兆民の『理学鉤玄』を読んでいた可能性が高い。
高校生の西田は精神も含む森羅万象を、力を帯びた原子の組み合わせからなるものとして理解し、死という現象をも複雑に組み合わされた諸原子の分解と捉えている。
中江の無神無霊魂説は仏教的な無の思想に通じるものを有している。無の思想は無神論唯物論)や自己を深く掘下げるものとしての<自省の能>にも結びつき得るが、中江は無の思想・自省の能・唯物論を性急に結びつけている。
これら3つの要素は西田哲学にも見られるが、西田は中江のように3つを性急に結びつけてはいない。
若い西田が唯物論的にものを考えていたのは、当時の西田の政治意識と結びつけて理解するだけではなく、考え方の質として、後年の西田の思索とも無関係ではないものとして理解すべきである*2。晩年の西田が自己の哲学の中にマルクス唯物論を取り込めると自信を見せていたのも、そういう観点から理解できるのではないか。

中村が西田哲学と対決するに至った経緯(21-29)

西田幾多郎は「日本における最初の独創的な哲学者」であるだけではなく、近代日本最大の哲学者であり、世界的に見ても第一級の哲学者である。

中村が西田を取り上げたのは「西田の思索が私たちに投げかけている問題の大きさと深さのゆえである。彼の示している答の正しさや答の出し方の厳密さのゆえであるよりは、彼が鍬を入れた領野の、現代哲学の問題としての根の深さのゆえである。更に言えば、もっとも検討し甲斐、批判し甲斐のある相手としてである」(21)

中村は制度論を研究する中で西田哲学との対決を迫られ、西田哲学の無媒介的・直接的な性格を批判した(「『思想』の思想史」,1967年)。その後、中村は西田哲学を内在的に批判すべく、<表現的世界>の問題に立ち入ることになった。
<表現的世界>の問題とは、人間の自己表現として文化(制度を含む)の内的な動態にかかわる問題であり、そこでは言語の問題が中心的な意味を持ってくる。そのため、中村の関心は制度論から言語論へと移行した。

言語の問題の面白さは、言語自体が<意味し-意味される>ないしは<表現し-表現される>という関係を含むだけでなく、語る主体に関わる側面と<制度>(構造体)という側面を併せ持っていることにある。中村は<制度としての日本語>という問題を発見したが、その際、西田哲学が<日本語の論理>と言うべきものを体現していると気がついた。

言語に対する思索を深める中で、中村は理性(論理)ではなく共通感覚(言語)の立場から哲学上の諸問題を捉え直し始めた。共通感覚を通して場所の問題を考察していく中で、中村は西田の場所の問題と対決せざるを得なくなった(『共通感覚論』1979年)。
※『共通感覚論』を執筆している時点で、中村は西田も共通感覚に言及していることを把握していなかったという。

その後、中村の主題は共通感覚論から<演劇的知>・<パトスの知>へと移行したが、これは<近代の知>に対するalternativeを提出するためであった。<近代の知>が普遍主義、客観主義、分析的であることを指標とするのに対し、<演劇的知>はコスモロジー、シンボリズム、パフォーマンスを指標とする。
この作業の中で、中村はパトス的行動(受苦的行動)としてのパフォーマンスが西田の行為的直観と重なることに気がついた。

哲学者としてのキャリアをスタートさせた時点で、中村は西田哲学を自分と縁遠いものとみなしていたが、思索を深めるにつれて西田と中村の関心は重なっていった。
西洋世界で深層心理学記号論言語学文化人類学が新しい展開を見せ、それによって哲学の知が問い直される中で、西田哲学の意義が一層広い視野で把握できるようになった。
そうした流れの中で、日本の哲学の曖昧さも却って積極的な意味を持ちうるだろうし、西洋と東洋の対立も絶対的なものではなくなるだろう。両者は文化の深層において通底し合うとさえ言っても良い。

西田哲学を可能な限り解体し、現代の我々の視点・知見から西田が扱った問題を捉えなおしたい。そのために、本書では西田の5つの鍵概念をそれぞれもっと一般的な問題の中で考察するというアプローチを採る。それは「西田の問題を歴史的な文脈のなかに置くよりも、むしろ現代の問題として考えたいと思うからである。西田の問題を彼個人の、また哲学の内部だけの問題としてではなく、彼の問題群と内容的に大きく触れ合うところのある、現代の、とくに日本の、さまざまな創造的な思想家や学者の問題や問題意識とできるだけかかわらせて論じたい」(29)

*1:本書で提示された論点に対する中村なりの思索は『術語的世界と制度』(1997年)にまとめられている。

*2:だからといって、中村は「若き西田の唯物論的な考え方が後年の無の思想に繋がる」と主張しているわけではない