読書メモ:武藤一雄『神学と宗教哲学の間』(1961年)序+第1章序論

何故武藤一雄を取り上げるのか

武藤一雄(1913年-1995年)は日本のキルケゴール研究やティリッヒ研究に大きな足跡を残した人物として知られるが、彼にはもう一つの顔がある。それは京都学派の流れをくむ神学者宗教哲学者という顔である。武藤の指導教官は田辺元であり、その著作には田辺哲学だけではなく、逆対応のような西田哲学に由来する概念も登場する。
 それにも拘らず、武藤が京都学派研究の中で取り上げられることはほぼない。同じく神学をバックボーンとする波多野精一滝沢克己と比較してもその差は歴然としている。また、武藤には田辺哲学に関する研究論文もいくつかあり、その質は最近の論文と比較しても遜色ない出来だが、「田辺哲学とキリスト教」のようなテーマでさえ、武藤の名前が出てくることはまずない。誠に不可思議なことである。
 そこで、私は武藤の主要著作を改めて読み直すことにした。つまり、武藤の博士論文『神学と宗教哲学の間』(1961年)から最後の『神学的・宗教哲学的論集』第3巻(1993年)までの著作を読み*1、いつものごとくメモにまとめてみたいと思う。武藤の功績を世に知らしめたいという思いは当然あるが、私のような一般人ではその著作を読むのが精一杯である。武藤宗教哲学が如何なる独自性を有するのか、またその歴史的意義・アクチュアリティはどこにあるのかという問題の解明は専門家による研究を俟つより外ない。ご容赦のほどを請いたい。

『神学と宗教哲学の間』序

「神学と宗教哲学の間」とは本書全体を貫く問題意識である。
京都大学という国立大学に奉職し、そこでキリスト教についての研究・教育を行う者として、キリスト教についての学問的研究が、単に特定の協会的地盤に立脚する神学的教説に留まることはできないと思わざるを得ない。
また、「キリスト教の学問的研究は、単に狭義の神学的立場に限局さるべきではなく、より広い理性的立場に解放され」、「宗教学的に或いは宗教哲学的になされなければならないと信ずる」
ティリッヒが言うように、宗教的知識はKnowledge of participationであるという意味を持たなければならない。「単に諸宗教或いは特定宗教を外から客観的に、実証的に考察し研究するというだけでは不充分であって、なんらかの意味で、自己自身が宗教の立場に立ち、宗教の内側からその本質をあらわにし、或いはその真理を自覚するということがなければならない」。キリスト教に関する知識にも同様のことが言える。

第1章:カントからキルケゴールへ 序論(1-

第1節(1-8頁)

宗教哲学の性格について考察するに当たり、宗教哲学と神学との関係を重視するという立場を取るのはそれによって宗教哲学・神学の性格が決定的に規定されると考えられるからである。
宗教哲学と神学の関係がどう規定されるのかという問題は、宗教哲学と神学の双方にとって重要な課題である。
菅円吉による宗教哲学の二類型
・哲学的宗教哲学→哲学が神学を基礎づけると考え、特殊宗教は宗教一般の特殊的限定とみなされる。神学がその自律性を否定されて宗教哲学に従属させられる場合もある。
・神学的宗教哲学→神学が哲学を基礎づけると考え、神学の自律性が尊重される。特殊宗教の本質が宗教一般の本質から演繹されるという考えも退けられ、特殊によって一般が限定されるという発想すら出てくる。
宗教哲学を哲学的宗教哲学と神学的宗教哲学に分類しようとする試みは、神学と哲学の対立関係を前提し、両者の固有性・独自性を認めた上で、宗教哲学が両者の媒介者的地位に立つとみなしている

宗教哲学が哲学と神学の媒介者的地位にある」という主張に対し、神学と無媒介な宗教哲学が存在するという反論があり得る。
啓蒙主義の自然神学的立場は理性主義の枠内に留まるもので、その神観も理神論に帰着し、真に深い宗教哲学にはなり得ない。

西欧の宗教哲学には、哲学と宗教が何らかの形で止揚されて一になるという「形而上学的類型」とも言うべきものが存在する。「形而上学的類型」に属する新プラトン主義やヘーゲル宗教哲学にも宗教哲学としての価値はあり、その伝統はカントやシュライアマハーの哲学にも見られる。
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形而上学的類型」に属する宗教哲学には根本的な問題が存在する。そうした哲学においては、実定的宗教と無媒介な形而上学的宗教が真の宗教として立ち現れ、現実の実定宗教に対してどのような態度を取るかという問題が意味をなさなくなる(6)。
現実に存在し経験される実定的宗教を抜きにして、真の宗教を考えることができるのか。
シュライアマハー以降、「形而上学的類型」に属する宗教哲学は西欧の宗教哲学から次第に疎外される傾向にある。ただし、完全に消え去ったわけではなく、宗教を形而上学や哲学に解消しようとする傾向・衝動は今もなお存する(特にアメリカのプラグマティズムに顕著)。
哲学がどこまでも哲学であることを標榜しつつ、それが宗教の問題との対決・深い触れ合いを含むとき、その哲学が本来あるべき宗教哲学と如何なる関係を持つのかという問題が重要になってくる。

第2節(8-13)

哲学的宗教哲学にはカントやヘーゲルの理性主義的宗教哲学だけではなく、シュライアマハーのロマン主義宗教哲学も含まれる。後者も究極的には理性主義との繋がりを否定していないためである。
哲学的宗教哲学において、神学と哲学を媒介するのは理性である。

哲学を神学から排除しようとするバルトの神学や哲学の自律性を尊重しないブルンナーの神学は神学的宗教哲学とは言えない。そこに神学と哲学の媒介関係はないからである。菅円吉はバルトやブルンナーをも神学的宗教哲学とみなしたが、以上の理由から、武藤は両者を神学的宗教哲学に属さないものとみなす。
武藤によると、神学的宗教哲学の典型はキルケゴール実存主義である。キルケゴールの哲学は神学に規定された哲学でありながら、どこまでも実存としての哲学の立場を保持し、そのことによって神学と否定的に対立する契機(例:ニヒリズム)を含むからである。
キルケゴールはバルトの神学と相通じるモチーフに貫かれていると共に、シュライアマハーの宗教的体験主義とも根底的に繋がる契機を有する。その意味で、キルケゴールにおいてバルトとシュライアマハーの綜合を見出すこともできる。

「哲学的宗教哲学といい神学的宗教哲学といっても、何れも哲学の立場に立つという点では相互に触れ合い透入し合う関係に立つべき筈であって、むしろ具体的な宗教哲学の立場は、神学的宗教哲学と哲学的宗教哲学とが相互に媒介されるところに成り立つ」(12)

続く考察は「神学と哲学の媒介関係が正しく自覚され遂行され、且つ哲学的宗教哲学と神学的宗教哲学との具体的関係が追求されなければならぬ」という問題意識に基づく。
 
 

*1:武藤の処女作『信仰と倫理 キエルケゴールの問題』(1950年)は近場の図書館に収蔵されておらず、古書市場にも流通していないため、このブログで取り上げられることはないと思う。