読書メモ:上田閑照「西田幾多郎―「あの戦争」と「日本文化の問題」」(1995年)

 2021年の今ではもうそういう人はいないか、いたとしてもごく少数になっていると思われるが、ある時期まで、西田幾多郎及びその哲学を肯定的に論じるということ自体に嫌悪感を抱いていた人が存在していたと聞く。彼/彼女らは西田を許されざる戦争協力者とみなし厳しく批判したが、その批判の仕方は独善的に過ぎるものが多く*1、西田のテクストや書簡を丁寧に追った上での批判は少なかったとされる*2
 このような状況に一石を投じたのが故上田閑照氏の論文「西田幾多郎―「あの戦争」と「日本文化の問題」」(1995年)である。この論文は西田幾多郎没後50年を記念した『思想』第857号に掲載された。氏は同論文で西田のテクストと書簡を丹念に読み、西田の時局に関する発言がいかなる文脈の中でなされているのかを解明しようとした。この姿勢は西田の戦争責任、さらには京都学派の戦争責任について考察しようとする全ての者がプロアマ問わず共有すべき姿勢だと思われる。そういうわけで、いつものようにメモを作成した次第である。

第1節(107-115頁)

戦前、西田幾多郎はその哲学の世界性故に戦争に非協力的であると糾弾された。ところが、戦後になると、一転して西田哲学の日本主義的傾向や帝国主義的傾向が問題視されるようになり、戦争加担として糾弾されるようになった。
戦前の批判者も戦後の批判者も「実際に西田があの歴史の経過の進行中に何をどのように考え、何をどのようにしてきたのかを、手掛かりになる直接の資料に基づいて具体的にそして必要な連関をそなえて取り出してみるということを」ほとんどしなかった。
本論文は西田の日記や書簡をも踏まえ、西田が戦時下で何を考えていたのかを西田自身に語らしめようとするものである。その都度の発言がなされた状況と文脈を正確かつ具体的に踏まえると共に、西田の思想と生涯にも注意していく。

西田は『日本文化の問題』(1940年)で「最も戒むべきは、日本を主体化することでなければならない」と述べ、帝国主義化する日本の現状に警鐘を鳴らした。竹内芳郎はこの箇所を誤読し、西田が戦争の意義を宣揚したなどと的外れな批判をした。
西田は開戦や戦争初期の快進撃を目の当たりにして興奮するようなことはなく、ただ日本の行く末を憂慮していた。日露戦争の喧噪の中でも、西田は同様の態度を取っていた。
※西田にとっての座禅は歴史的現実からの逃避ではなく、むしろ長いスパンで歴史的現実の行く末を見る落ち着きを与えるものであった。

上田氏は「世界新秩序の原理」を「自発的にではなく状況に迫られて」書いたものと見、西田が言う「特殊的世界即ち共栄圏」を現代のECやASEANのアナロジーで理解している(112)。
西田が大東亜共栄圏ではなく、東亜共栄圏という言葉を使用していることにも注意すべきである。前者は固有名詞であり聖性を付与された概念だが、後者は複数性を帯びた概念である。
共栄圏は特殊的世界という歴史哲学的概念に基礎づけられている。特殊的世界は個別的な各民族各国家と普遍的な世界的世界を媒介するものである。上田氏は西田が各国家と並んで各民族を挙げていることにも注目する。西田は「当時の植民地時代において他国の支配下にたった諸民族を民族としてその可能的独立性において」挙げているのである*3
氏によると「制度的な世界組織、現在で言えば例えば「国連」などは勿論なくてはなりませんが、共同体的性格を保持し得る範囲での特殊的世界相互の関係によって実質的に裏打ちされる必要がある」と西田は考えていたという*4

西田の「世界新秩序の原理」は歴史への巨視的な洞察に導かれつつ、軍部や日本主義者たちへの批判をこめて提出されたものだと言える。そこで、西田は「大東亜共栄圏」に「人間の歴史的発展の終極的の理念」に向けて世界的世界を共に構成する諸特殊的世界相互の一つとしての「東亜共栄圏」という新しい意味を付与しようとした。
これは西田と軍部・日本主義者たちの間で行われた「意味の争奪戦」である。「何故西田は戦争に反対しなかったのか」という批判・問いは戦時下の緊張を考慮しない安易なものである

第2節(115-124頁)

西田は『日本文化の問題』においても「皇道」や「日本精神」をめぐって「意味の争奪戦」を展開した。『日本文化の問題』と「世界新秩序の原理」は西田自身の主張としてではな、「意味の争奪戦」として日本の現状を批判した本として読まれるべきである。

『日本文化の問題』はその2年前に行われた同名の講義を基にしているが、新書版の分量は講義版の3倍以上である。また、新書版と講義版の双方に講演「学問的方法」(1937年)の原稿が付されていることにも注目すべきである。
新書版と講義版の相違
・新書版の第2章と第4章は新たに書き下ろされたものであり、全体の半分をなす。これは「論理と生命」で展開した西田自身の思想を要約したものである。西田がそうしたのは自らが日本主義者たちとは異なる立場に立っていることを明示するためであった。
・新書版では「皇道」という語が複数回使用されているが、講義版で「皇道」という語は使用されていない。これは2年の間に「皇道」という言葉が現実の思想に大きな影響を及ぼすようになったので、西田は「意味の争奪戦」に打って出ざるを得なかったためである。
※西田の「皇道」は孫文が日本に求めた「王道」に近い。

西田は『日本文化の問題』で「我が国の歴史に於いて皇室は何処までも無の有であった。矛盾的自己同一であった」と述べているが、その際「矛盾的自己同一」という語を使用し、「絶対矛盾的自己同一」を使用していないという点に注意すべきである。西田はこの2つの語を慎重に使い分けている*5。西田は皇室を絶対化したのではなく、そのあり方を規定したのである。

ここまでの考察を踏まえるなら、西田を「日本精神」主義者、「天皇」絶対論者、国家主義者、軍国主義者、戦争加担者、「大東亜戦争」のイデオローグとみなすことはできない。
西田の戦時中の言動に対する批判が西田のテクストや書簡・日記を軽視して行われたという事実は、それ自体問題的な歴史的現象である。
西田は「意味の争奪戦」で敗れたが、その敗因は西田哲学そのものにあるのか。また、西田の当時の思索がどのような意義を持っていたのか、そして、その思索にいかなる今日的意義があるのか。これらの問題が考察されるべきである。

第3節(124-132頁)

「あの戦争」を越えて西田哲学が今日も意義を有するのかどうか、その手掛かりは『日本文化の問題』に表れている間文化的発想にある。
西田は東洋と西洋の原初的な出会いの中で「世界の開け」への思索を苦労して行ってきた。その根本関心は「世界がレアールになった」今日、日本文化が世界文化の共同形成に何をどのように寄与し得るかということにある。
西田は日本文化の独自性を踏まえつつも、日本文化は世界に開かれている必要があると考えていた。
西田が世界性を強調すること自体、当時の思想潮流に対する強い批判になっている。
西田が提示した西洋文化東洋文化に共通する一層深い根底を見出すという課題は今日の我々にも課されている課題であり、永遠の課題でもある。
※ただし、日本的、東洋的、西洋的という規定が具体的かつ妥当性のある規定であるか否かは再度検討しなければならない。また、洋の東西だけではなく、南・北の対比も考察に入れる必要がある。

西田が事態をはっきりと認識できたのは、西田自身の根本経験によるものである。西田は約10年もの間、西洋哲学の読解を進めると共に禅の修行にも打ち込んだ。この中で、西田は東洋と西洋の相違を自覚した*6
西洋哲学は反省の反省という高次の反省の学であり、禅は反省の突破を核心に含む。両者の相違は想像を絶するものである。
西田はこの相違を身を以て経験し、西洋文化東洋文化の異質性の間で自己が引き裂かれるような経験をし、その裂け目に「一層深い根底」への通路を見出した。これは日本人論や比較文化論とは質的に違う厳しいあり方である。「一層深い根底」に到達した西田は反転してその裂け目を張り渡すような世界投企の思索を続けた。
世界の歴史において始めて「禅」の歴史と西洋の「哲学」の歴史とが、西田において真に出会い交わったと言える(128)。

西田哲学は「日本文化の伝統から(それを離れずに)世界に出て世界に触れる道になり得ると同時に、逆にまた、西洋、欧米、ないし広く非日本的文化の伝統から(それを離れずに)日本文化に触れ得る道になるでしょう」(132)
西田自身が歩んだ道が引き続き歩まれることが、世界が具体的に世界になっていくことであろう。

エピローグ(132-133頁)

ニーチェハイデガー脱構築という動向は「無へ」という方向であり、西田の思索は「無から」の方向だと言える。「無へ」だけならば全ては問いに留まるが、その故に「無から」に問いを見出すことができる。また、「無から」だけならば答の力は薄れ単なる無事になってしまうが、「無へ」によって生れる問いの厳しさに触れることで再び活力を得ることができる。
「無へ」と「無から」は無を挟んで背中合わせに通じ合うべきものである。そのとき「問いと答え」から新しい世界原理、つまり、「単に西洋的でもなく単に東洋的でもなく、しかも、それぞれの異なった伝統をそれぞれとして再活性化して豊かに内実を含む一つの世界の新しい原理」が生れる可能性が生じるだろう。

しかし、世界の一体化が進む今、西洋と東洋という対立を想定していることが無意味になりつつある。無は虚無と化し、「問いと答え」は虚無の中に呑み込まれていく。こうした状況に対し西田哲学は如何なる意義を有するのか。この問題は私たちの問題である。

 

*1:大宅壮一のようにセンセーショナルに騒ぎ立てる者もいた

*2:西田に戦争協力者のレッテルを貼った人の中には、実際に戦場で戦ったり、同志が政治犯として投獄されたりしたという人もいると思われる。その手の人たちが西田の戦争責任を問う際に冷静さを欠いたのはやむを得なかったのではないかと思う。

*3:上田氏の見方に従うと、西田には植民地主義を批判する視点があったということになるが果たしてそこまで言えるのだろうか。

*4:氏の言う通りなら、西田は制度のその先を見ていたということになる。中村雄二郎のように、西田哲学に制度論的思考の欠落を見る論者からすれば、これは受け入れがたい見解であろう。

*5:本当にそう言えるのか?

*6:西田自身はそう言っている箇所はあるのか。参禅体験の過大評価ではないのか