読書メモ:中村雄二郎『西田幾多郎』(1983年)第2章

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河合隼雄の日本人論を手引きに西田の自己概念を読解するという試みには首をかしげざるを得ないし、そもそも、中村はユング=河合の意識モデルに期待しすぎている―例えば、中村はユング=河合の意識モデルが近代科学誕生の謎を解明するのに役立つと述べている(53頁)―と思う。ただ、ユングの自己概念と西田のそれを比較するという作業は誰かがやるべきことだと思う。

第2章:自己―<純粋経験>

第1節:内部生命を求めて(31-35)

西田哲学は日本の急速な近代化に由来する混乱と焦燥の中で、日本における近代的個人の精神的支柱を求めて出発した哲学だと言える。しかし、西田が思索の末にたどり着いた自己はデカルトのコギト宜しく、思考の自律によって根拠づけられた自己、自由で開かれた能動性に溢れる自己ではなく、<明治の青年>が共通して抱えていた挫折感・悲哀を帯びた悩める自己であった。
悲哀を帯びた悩める自己は、何よりも自身の内部の生命に目を向け、それを拠り所として生きる自己である。西田の生涯は人間の<内部生命>を自覚し、それを論理化する作業に捧げられたと言っても良い。
後期の西田が言う歴史的生命も内的生命の現われである。
西田が求めた真の自己と北村透谷が言う<内部生命>には重なるものが多い。
cf.山田宗睦『日本型思想の原像』(1961年)

第2節:直接経験と日本の知性(35-49頁)

悲哀を帯びた悩める自己は感情と身体性を備えた自己であり、受苦(パトス)を帯びた行為的な自己、宇宙性を帯びた自己である。この自己は単に主観的なものでもなく、客観的なものでもない。分析的・間接的に把捉することもできない。この自己を捉えるには、主客未分の直接的な経験=<純粋経験>の中で直感的に把捉するより外ない。
西田の純粋経験は一方ではドイツ観念論と結びつき、他方では長年の参禅による見性体験に裏付けられた行為的自己に依拠しており、生命的自覚に根ざした活動的性格を持っている。


小林秀雄西田幾多郎は真の自己とその相関者である実在の真景を希求しているという共通項を有している。両者は観念上の自我を排除するよう努め、心を虚しくして実在や自然を受け入れるべきことを説いている。
ただし、小林秀雄が言う<己れの世界>は西田のように宇宙と直ちに通底するものではなく、その自己概念は西田ほど自由・広大なものではない。小林の方が近代的自我に近い。
西田と小林の自己論は、私たち人間の表層的な自我の根柢に、パトス的な自己の活動があることをはっきり示している。2人の自己論は日本の多くの知識人の拠り所となった。
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西田と小林の自己は共に内面世界・美的世界に深く入り込みすぎており、外的な現実、特に制度的・政治的な現実と隔絶している

森有正も経験の直接性に注目しているが、西田とは異なり言語にも注目している。
森の<経験>が西田の<純粋経験>と明らかに異なるのは、主体や主語の契機が放棄されずに保持されている点である。また、森の<経験>が小林の経験と異なるのは、間接的にしか知り得ない国際社会で起こることをも含んでいる点である。

森は日本人の経験が<汝-汝>関係によって特徴付けられるとしている。
<汝-汝>関係は特定の相手と結びついて他のあらゆる人間の介入を拒む閉じた存在形態である。この関係にある自他は相手に対して秘密のない関係を形成する。
<汝-汝>関係は対等=水平な関係というより、むしろ上下=垂直関係である。それは既成の社会秩序を体現したものである。
森は直接的な経験を重視し、経験が個人を定義するとしながらも、他方では社会に開かれて自立する<自我>の立場を守り抜き、日本人の自己と自他関係の両方の有り様を裏側から批判的に照らし出した。
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森は根本的な事実を提示したに留まり、日本人の自己や自他関係がどうしてそういう形になったのかという原理的な解明には至っていない。また、森の<経験>は直接的な経験でありながら、間接的な体験でもあり得るわけだが、何故そうなるのかの根拠が示されていない*1そのため、森が西田と小林を超えたとまでは言えない。

第3節:自我と自己(49-)

西田や小林が言う身体的で行為的な自己はユングの言う自己(self)に相当する。
ユングが<自我-自己>モデルで言わんとしていることは、透谷-西田の<内部生命論>に深く通じるものがある。

河合隼雄の日本人論を参照するなら「西洋人の方は、自我を中心として、それ自身一つのまとまりのある意識構造を持ち、日本人(東洋人)の方は、それだけではまとまりがないようでいながら、実はそれは意識の外部にある中心(自己)へと心が修練していく構造を持っている」と言える(51)。
日本人と西洋人という対比は大雑把に過ぎるし、東洋人の中で日本人はどのような特徴を有しているのかという考察もなされねばならない。また、我々は日本対西洋という対比構図の束縛から解放されるべきでもある。
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「私たちが、近代西洋と、いちはやく近代化を体験した日本人という観点にはっきり立つならば、西洋人と日本人というこの対比の立て方も十分意味を持ちうる」
ユングが「東洋人は自我のない意識を持つことができる」というとき、その意識は西田の意識概念に近いものである*2
中村がユング=河合の意識モデルを援用して純粋経験の読解を試みたのは、神秘化されがちな西田の純粋経験・自己を可能な限り明快に論じたいという意図があったからである。また、そうすることで、西田哲学を既成の東洋思想という観念の枠から解放できるのではないかという目論見もあった。
西田は無意識という概念を認めておらず、真の自己を自覚(自己意識)の深まりの中に見ている。しかし、西田が「哲学的研究の必要」と題された断章群で述べたことは、ユング=河合の意識モデルが言わんとすることと重なっている。

西田幾多郎の<純粋経験>と<自己>についての哲学的思索は、単に東洋思想や日本思想を西洋思想とは全く別のものとして哲学的に基礎づけたものではない。
むしろ、それらは「人類に共通な、かつ二十世紀の哲学や思想にとって切実なものとなった<直接体験>や身体的で行為的な<自己>という問題に、近代日本人としておのれの内面を掘り下げることによって深く鍬を入れたものであった」(56)。

 

*1:中村は指摘していないが、西田の純粋経験にも同様の問題があるのではないか。つまり、西田は一方では主客未分の状態を純粋経験と言いつつも、他方では思惟や意志の働きに至るまで全てが純粋経験であると主張している。

*2:その相違点はどこにあるのだろうか