読書メモ:武藤一雄『宗教哲学』(1955年)序~第1章第3節

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 以前、武藤一雄を取り上げた際、「古書市場に流通していない武藤の処女作を除き、その著作を『神学と宗教哲学の間』から順を追って読んでいきたい」という趣旨のことを宣言したが、処女作と『神学と宗教哲学の間』の間にもう1冊本が出版されていたのを失念していた。それこそが今回取り上げる『宗教哲学』(日本基督教青年会同盟、1955年)である。同書は分量こそ少ないものの、武藤が目指しているものが分かりやすい形で述べられており、「宗教とマルクス主義」のような後年の著作では取り上げられなくなったテーマについての考察も含んでいる。武藤の思索を追う上で外せない1冊であることは間違いないように思われる。

序(1-5頁)

キリスト教の信仰に立脚した宗教哲学の書物を出してみたいと長らく願っていた。今後は第三章で述べた問題をより広くより深く考察していきたい。
本書はキリスト教信仰に立った宗教の弁証論である*1
神学者にとっても、今日の時代において、福音の真理をどのように弁証すべきかという神学の弁証論的課題は非常に困難かつ重要なものになっている。
この課題を遂行するためには、既成の神学的立場を超出し、広くかつ深い哲学的視野と洞察を媒介することが不可欠だと思われる。さらに言えば、「弁証論はもはや単に神学的領域にとどまることができず、むしろ神学と宗教哲学(神学的宗教哲学)とを媒介するような位置に立ち、かつ両者にとって欠くべからざる契機をなすと考えられる」(2-3
武藤が言うキリスト教哲学、神学的宗教哲学キルケゴールの宗教的実存主義と完全に一致するものではないが、それと深く相通じるもので、後者をより具体化したものでなければならない。また、パウルティリッヒからも多くを学んだ。

「一般的にいって宗教を非宗教的乃至は反宗教的世界観や思想と対決せしめ宗教の真理(キリスト教にとっては福音の真理)を弁明するという弁証論的課題は、単に外なる思想に対して自己を固守し防衛するという機能を果たすだけにとどまるものではなく、同時にそれによって自己の本質をより深く反省し究明する哲学的乃至神学的課題と結合されなければならない」(3)
弁証論は超越即内在的なものであり、他者批判即自己批判でなければならない*2

今日の弁証論はマルクス主義、科学、ニヒリズムと対決することを迫られている。

第1章:宗教とマルクス主義(1-69頁)

第1節:宗教の弁証ということについて(1-5頁)

哲学と神学は最広義においては宗教学に含まれる学問であるが、宗教の実証的研究あるいは経験科学としての宗教学は宗教哲学・神学と性質を異にする学問である。
神学・宗教哲学は研究者の現に立脚する信仰や宗教体験の如何によって期待されるところが極めて強く、決定的な意味を持っているとすら言える。
宗教に対する主体的関心と実存的情熱なくして、宗教哲学的な探求に没頭することはない。神学も同様である。

科学的に啓蒙された近代人の宗教に対する考えの中には、宗教に対する偏見や不当な先入観に基づくものも少なくない。
宗教は実は人間の最も根本的な生き方にかかわるものであり、人間的生を全体として根底的に問題にするものである」(4)
現代において、宗教哲学の研究に対する真面目な関心を喚起するには、最初に宗教に対する偏見や誤解を可能な限り除去し、それによって宗教の真の意味を解明する必要がある。これこそが神学・宗教哲学の最重要課題である。

第2節:宗教否定の立場、フォイエルバッハの宗教論について(5-9頁)

哲学的探求の末に宗教否定の立場を選択するということは可能だが、その探求は単なる日常性の立場における宗教否定の次元を越える必要がある。
「浅薄な無神論を自らの内部から不断に再生産してやまないような社会は本質的な欠陥をもち、そこからは偉大な深みのある文化創造を期待することは到底できない」(5)
ニーチェを見れば分かるように、ヨーロッパ人が宗教否定の立場に立つ場合、その考察が根本的であればあるほど、キリスト教をその根幹とするヨーロッパの伝統と対決することになる。

フォイエルバッハの宗教論は宗教についての最も深い理解に基づいたものではないが、宗教・神学との真剣な対決によって生れたものである。
フォイエルバッハにおいて、精神としての人間はなお自然主義的に把握されている。フォイエルバッハは宗教を観念論的な神理解から解放し、どこまでも自然主義的に理解しようとする意図がある。
フォイエルバッハの宗教論は余りに人間主義的な宗教批判として無視できない意義を有する。

第3節:フォイエルバッハマルクス主義(9-12頁)

今日、マルクス主義の宗教観は常識と化しているが、その理解は「人間が神を作った」とみなし、宗教の本質を人間の本質に帰する点においてフォイエルバッハの宗教観と相通じている。
ただし、フォイエルバッハの哲学が感性的・個体的な人間存在を抽象的に独立した存在とみなす自然主義唯物論であるのに対し、マルクス・エンゲルス弁証法唯物論であるという相違はある。
マルクス主義によれば「民衆の阿片である宗教の真理性を擁護するものは、実は現実の矛盾を放置して、現実の新しい構成に怠慢な、或は現状維持を利益とする保守的反動的勢力と結合するものである」とされる(12)

 

*1:キリスト教の信仰に立ちながら、宗教一般を弁証することは可能なのだろうか

*2:京都学派特有の「即」という概念が出てきているわけだが、相反するものがどのようにして結びつくのか考察されているのだろうか。また、両者はそもそも結びつくのか、あるいは結びつけて良いのかという疑問に対する回答はなされているだろうか。