読書メモ:武藤一雄『宗教哲学』(1955年)第1章第4節~第7節

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宗教は超越的でありつつも、社会を変革していくことをその本質としており、保守性の発現は宗教にとって頽落であることが論じられている。

第1章:宗教とマルクス主義

第4節:宗教の保守性ということについて(12-14頁)

宗教が主体的な人間の心情を離れて客観化し制度化する場合、どの宗教でも宗教の保守性が表れてくるが、これは真の宗教的生命を枯渇させるものである。

宗教は社会的統合を実現する方向に働くものだが、宗教の生命は「神をあがめる」ことにあるのであって、社会的統合を実現することに存するわけではない。
宗教的生命と社会的統合の関係はどこまでも間接的・媒介的でなければならない。可視的・固定的なものではなく、不可視的・発展的、不断に創造的なものでなければならない。
宗教保守主義と社会的保守主義の調和的関係には、宗教と社会的統合の直接的・意図的な関係が存在し、両者の生命を枯渇させている。

第5節:宗教の創造的生命について(15-19頁)

既成宗教が社会の保守勢力と結びつき、社会の現状を支える観念的城砦として機能してきたという歴史的事実は看過できない。
そのため、旧秩序に決定的な打撃を加えようとするブルジョア革命が、反カトリック・反宗教的な世俗主義の立場に立っていることは理解できる。
but
封建的旧秩序からの人間解放を目指すヒューマニズムが常に世俗主義と結びつく必然性はない。ルネサンスヒューマニズム宗教改革の精神の結びつきを考えれば分かる。

「宗教は民衆の阿片である」という宗教観は、宗教が既存の社会秩序を維持する観念的武器として機能しているという事実に由来する。
宗教の保守性は生命に溢れた宗教の原現象ではなく、宗教の頽落現象である
「教祖とか預言者とか改革者などに見られる深刻なかつ生々とした宗教的体験が、人格から人格へと不可測な神秘性に充たされて伝達され、超越を媒介として生ける実存的交際が行われるところでは」、宗教の保守性が発現することはあり得ない(17)。
健康で生き生きとした宗教的生命は、常に自己否定的・革新的創造的であり、伝統的なモラルや既存の社会的価値観念に対して批判的であり、価値顛倒的ですらある
cf.山上の垂訓

宗教の現実に対する創造力は、人格やモラルによって媒介される必要がある。その力は極めて迂回的ではあるが、現実を根柢から徐々に動かす力である。

第6節:プロテスタンティズムと近代社会の形成(19-24頁)

マルクスは現実を創造する生命としての宗教に対しては無理解だった。マルクスは宗教を観念的なもの・イデオロギーとして理解し、宗教に固有な高次の実在性を全く認めない。
「宗教の世界は、普通の日常的な実在意識から見られるならば観念的と見えるものが、所謂実在的と見られるものと却って全く空無化するがごとき高次の実在性をもつところに」成立する(20)。
この高次の実在の世界が歴史的現実の創造的根柢である。
社会の変革の決定的な契機が社会の物質的生産力と生産諸関係との矛盾に求められる限り、マルクス主義では宗教の創造的・革新的な生命は理解できない*1
宗教的生命の現実形成力と唯物史観の立場は相容れない。

封建社会のエトスである儒教や非合理主義・絶対主義的な日本精神の哲学は近代市民社会の発展を支えうる地盤になりえない。東洋的無の宗教は出世間的・宇宙論的・非歴史的という性格を有するため、現実の歴史的発展と積極的に結びつくことはない*2
その一方、キリスト教、特にプロテスタンティズムは、その信仰が常に生成発展する歴史的現実の倫理と結合する。
cf.田辺元『キリストの弁証』

キリスト教がその信仰と現実の倫理との媒介を特色とするということは、今日の時代において特に、資本主義的な社会悪に対して戦うということなくしては、積極的な意味を失うであろう」(24)

第7節:キリスト教社会主義、ニーバー、ティリッヒの思想(25-34頁)

歴史上、キリスト教社会主義共産主義はしばしば結びついているが、その結びつきに必然性を見出すのは誤りである。
ティリッヒやニーバーが提唱しているキリスト教社会主義はバルト神学の超越主義と既往の自由主義的なアングロ・サクソン神学に対決する意味を持っているという点で注目される。
ニーバーは世界超越と世界変革という相矛盾する立場が逆説的に結合するところに真の宗教の立場を見出していた。今日、キリスト教社会主義を提唱する者はこのジレンマに対処する必要がある。

キルケゴールにおける永遠と時間の逆説的結合が、その瞬間論を通して極めて具体的に展開され、それが飛躍的・自己革新的な実存の実践の立場と結びつけられていることに注意すべきである。
キルケゴールは「時と永遠の時における媒介点を瞬間として規定したが、併し、そこではなお歴史的時間と永遠の媒介ということは殆ど問題にされていない。単独者としての実存と永遠絶対者との関係が中心問題で、そこには歴史哲学に不可欠な「種」の論理が欠如している*3。たとい彼が世界史ということを言う場合にも、それは個人の歴史的発展と直接的に結びつくような救済史を考えているに」過ぎず、「その実践主義も単独的な実存の立場における自己革新的な実践にすぎない」(31)
キルケゴールの立場が社会的保守主義と結合したことは上の事実に由来する。

パウルティリッヒカイロス概念は、キルケゴールの「時の充実」としての瞬間の概念に結びつきつつも、歴史哲学的な見地から見ればより具体的な思想を提示していると言える。
カイロスの思想は永遠と歴史の触れ合う接点―そこにおいて不断に新しく人間的社会的形態に神的秩序を現成せしめるごとき―の歴史的な動点を形成するものである。
神的秩序に従うということは、特定の社会秩序に絶対的に従うことではない。

 

 

 

*1:この論証ではマルクス主義的な宗教観を完全に論駁したとは言えないのではないか。宗教こそが歴史的現実の創造的根柢であることを事象に即して証明すべきであったのではないか

*2:田辺は浄土真宗、後に禅仏教にも社会実践の契機を認めたわけだが、武藤は認めないようである。

*3:武藤がキルケゴールを論じるとき、田辺を思わせる表現や論点が出てくることに注意すべきだと思われる。どこまで田辺と一致するのか、田辺と相容れない点は何処にあるのか。