読書メモ:中村雄二郎「言葉・表現・思想」(1968年)

 1968年は中村雄二郎にとって節目の年になったと思われる。当時、中村はフランスに滞在しており所謂「五月危機」をその目で直接見ることになったというのもあるが、それだけではない。1968年は中村が制度論から言語論へと主題を移し、後年の「演劇的知」へと繋がる考察をなした年でもあった(言語への考察を通して、中村が言うところの制度の意味内容が変化したわけだが、どう変化したかについては私自身の中でもまだまとまっていないので、後日検討したい)。
 この記事で取り上げるのは、中村が言語を初めて主題的に扱った論文「言葉・表現・思想」(1968年)である。著作集第3巻に収録されているバージョンを読んでいく。なお、各節のタイトルは中村が付けたものではなく、その内容を踏まえて私が独自に付けたものである。

はじめに(3-7頁)

「言葉とはなにか問いなおすことは、それ自身すぐれて哲学的なことである。なぜなら、哲学の<哲学>たるゆえんが自己への問いなおし、あるいは立ちかえりにあるとするならば、言葉とはなにかを問いなおす場合にも、それは言葉によって行われなければならないからである」(3)
言葉の問題は古くから哲学で問題にされてきたが、コミュニケーション手段の著しい発達し、言葉・記号・イメージが氾濫する現代において特に重要な問題とみなされるようになった。また、言語への注目という哲学上の流れは言語理論の新しい発展・展開からも大きな影響を受けている。

中村が言語を考察する上で手掛かりとする3つの問題
①「我々がものを考えたり、表現したりする場合に、その言葉の選択や結合、つまりは思考や表現そのものが、意識化された論理的な首尾一貫性とともに、それと重なり合って、下意識の次元での自由な自己統御を必要とするのではないか」(5)
本来の意味でのレトリックは論理を創造的なものたらしめるが、その基礎は「下意識の次元での自由な自己統御」にある。
この問題はそれぞれの文化に内在する言語体系の制度性・無意識性・分節化の問題と関わる。

②「言葉による思考がのびやかに展開されるためには、われわれは精神的にばかりでなく、心理的にも、さらには生理的、身体的にも、あるリズムの流れのなかに身を置くことが必要なのではないか」(5)
そのリズムは外から与えられるものではなく、自分自身で見出すべきものである。
アランはかたちを持った人間的表現(内なる自然としての情念をも含む)をシーニュとして捉えたが、これは言葉そのものの問題としても掘り下げる余地がある。
この問題は言語の身体的基礎、分節化、<意味し-意味されるもの>の問題と関わる

③課題に対して言葉で考察・表現しようとしたとき、自己自身が問いなおされることがある。それどころか、考察や表現が思うようにできないとき、自己の内的平衡が破られ、危機感・不安感を覚える。それに対し、考察や表現が思うようにできたとき、爽快感を覚える。これは何故か。
この問題は言語における語る主体の問題、情報理論やコミュニケーション理論と関わる。

第1節:言語の基礎としての下意識―①の問題について(7-20頁)

言葉は人間の作り出した道具であり、その中で人間が生きる環境でもある。この2つの性質を合わせると、言葉は制度でもあると言える。
パロールとラングのうち、制度としての言語に関わるのは後者である。
ラングは他の制度に比べて環境的な性格が強く、最も全体的でかつ永続的な制度だと言える。ラングは人間の生活全体に関わる制度である。
ソシュールが言う<記号の恣意性>は<意味するもの>と<意味されるもの>との間にある関係であって、言葉と物との間の関係の恣意性を意味するものではない。
「ラングにおいて、そのなかの個々の<記号>の恣意性は、その自由さによってかえって相互の間の相違と区別を媒介にした緊密な体系化を可能にし、それを通してラングは、人間生活の具体的な全体と、つまりは自然と結びついている」(12)

レヴィ=ストロースがいう無意識的なものは単に無定型な衝動的なもの、本能的なものではなくて、それらを規整・組織化するものである。
我々は<精神の無意識的な合目的性>によって文化やラングを形成するが、それらは非定型的な人間の情念に形を与え、組織化していく。個々人が人生において収集した<記憶とイメージの貯水池>である無意識的なものも、ラング(広くは文化)によって組織化されることで初めて意味を持つ。

「はじめに」で見た<下意識の次元での自由な自己統御>とは以下のような構造・ダイナミズムを有する。
「われわれは、自己のうちにあるアモルフなイメージや着想と、記憶のうちに持っている多くの言葉の両方を、高度に分節化した文化的なシステムとしてのラングのなかへ送りかえす。そして、その中で、イメージや着想をできるだけ適切、正確なものにするとともに、言葉とその組み合わせの持ちうる豊かな意味を可能なかぎりさぐり、この両者の統一あるいは相互媒介をとおして、考えたり表現したりしている」(16-17)
<下意識の次元での自由な自己統御>はレヴィ=ストロースの<精神の無意識的な合目的性>ではない。後者は文化のシステムを形成する方向に自然と働くものだが、前者は「自己の意識あるいはむしろ主体を、感情や情動を含む人間としての全体化の方向に開放あるいは下降させつつ、しかも、自己を放棄するのではなくかえって自己を全体的に統御するところに」成立する(17)。
自由な表現・思考は言葉の選択と結合のより自由な体系、つまり、より多くの分節化を含んだ体系の中で可能になる。体系は単に表現や思考を束縛するものではない。

第2節:言語の基礎としての身体的リズム―②の問題について(20-28頁)

思考や概念を既にできあがったものとして捉えるのではなく、それらの生成をも言葉との関係で捉えようとする立場において、ソシュールの記号理解―記号を恣意性を媒介にした意味するもの(記号表現)と意味されるもの(記号内容)の統一体と理解する―が最も良い手掛かりとなる。ただし、以下ではソシュール言語学とは別の方向から考察を展開していく。

言葉が事物を対象的に指示できるのは、記号内容の普遍化とそれの記号表現への客体化によって、明確かつ安定した能記・所記関係が得られるからである。このとき、普遍化と客体化は相関関係にある。
※この相関関係を踏まえるなら、プラトンイデアや神の言葉としてのロゴスは、記号の内在的構造を外部に投影して実体化したものと考えることも出来る。
「私が、<客体化>と<普遍化>を相関関係にあるとしながら、前者を重視するのは、広義の文化としての人間行動の<分節化>をもたらすものは<客体化>であると考えているからである」(27)

言葉は呼吸とそのリズムに基礎を持ち、声における音韻の分節化が記号表現と記号内容の統一体としての記号という、発声の次元に対して超越的な次元のものと媒介にして生じる。
その結果、言葉は事物を対象的に指示するという働きを持つようになり、そこから複雑かつ高度なシステムを形成していくが、「発音されるものである」という点に変わりはない。そのため、呼吸や発声におけるリズム、身体全体のリズムと何らかの関係を持つ。

思考は言葉によってなされるものである以上、身体のリズムの問題は思考にも関係する。ただし、思考のリズムと身体のリズムは直接繋がるものではない。それどころか、思考のリズムには身体のリズムに逆らう側面すらある*1
言葉はもっともよく使いこなすということは、そうした言葉の抵抗性(独自性)を生かしつつ、生理的、心理的リズムとの結びつきを回復することでなければならない」(25)。これは人間としての全体化だと言える。
この回復は個々人が意志的に行われなければならないものだが、回復は自己を客体化・反省することによって行われるものではない。回復が行われるのは意識と無意識が交錯する下意識においてである。

第3節:語る主体―③の問題について(28-36頁)

デカルトは思考の働きを純粋化して取り出したが、それを<コギト・エルゴ・スム>という言葉で表現しなければならなかった。これは<思考する主体>が<言葉>と密接に結びついていることを示している。
デカルトにおける<コギト>の直観とは、言葉の高度化と思考の純粋な働きとの見事な結合である。このように理解するなら、人間は<思考する主体>ではなく<語る主体>として捉えられる。

哲学が言葉によってものを考え・表現するという活動を純粋かつ徹底的に行うものだとするなら、<哲学者とは勝義における語る主体である>と言えるだろう。
このような見解の下、デカルトのコギトを狂気との関係で考察したのがジャック・デリダである。「<語る主体>は、ふつうもっとも抽象的で、概念的だと考えられている哲学的思考においてさえ、情念やパトスと結びつき、狂気を含みつつ、働く」(34-35)と考える点において中村とデリダは一致する*2
cf.ジャック・デリダ「コギトと狂気の歴史」

<語る主体>としての自己とそれを取り巻く世界は相互貫入関係にあり、それぞれが統一性を保持する限り平衡関係にある。
ところが、自己が言葉を使って考え、表現すべきものとして何らかの問題をもつようになったとき、既知の世界の中に未知・謎が生まれ、自己の内なる意味の統一体を一度解体して再統合する必要が出てくる。
この解体故に、我々は問題を持つようになったときに危機感や不安感を抱くのである。

自己の内なる意味の統一体を一度解体して再統合するということは、自己の全人間的な再統合、自己を取り巻く世界との平衡の回復、パトス的な決断を伴う自己の生まれ変わりである。
問題が解決された際に爽快さを感じるのはそれ故である。
※解体→再統合というプロセスにおいて、レヴィ=ストロースの野生の思考とフーコーの狂気が、未開人でも狂人でもない人間の中で、前者は無意識的な文化システムを形づくるモメントとして、後者は思考における決断のモメントとして結びついているのを見ることができる。

 

 

*1:後年、中村はリズムの問題をさらに掘り下げていくことになる。

*2:中村は<思考する主体>としてのコギトを<語る主体>と読み換えているが、デリダもそれに同意するのだろうか?