読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第1編第1章② 26-39頁

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第1編:自覚的意志の倫理

第1章:西田哲学の発祥(11-39)

後期の西田哲学から見た純粋経験論の要点

4:実在の主意主義的把握は後期の西田哲学の方法的中核をなす弁証法を必然の帰結としてもたらした(26-29)

善の研究』において弁証法という概念は自覚的に使用されていない。しかし、実在の分裂と矛盾における動的主体的統一の把握は実質的には弁証法的だと言える。このことは西田哲学が最初から我々の現実そのものを具体的に把握しようとしていたことを示している。

「我々が実在の真相に徹し、あくまでも主観を没して客観的現実の世界に身を投げ入れるとき、我々は現実そのものの自発自展的な動的事態性によって勢い弁証法的たらざるを得ない」(27)

善の研究』における思想を後期の西田哲学と比較した場合、その広さと深さにおいて埋められぬ隔たりがある*1
「今より数十年前、カントさえもが未だ我が学界の共同財としての意義をもち得なかった当時にあって、北陸辺地の一学徒の中から既に此の如き実在其者の方法的把握が先取されていたことを思う時我々はその炯眼と天才的な直観の鋭さとに驚かざるを得ない」(29)

5:道徳的判断の根柢を意識の直接経験に求め、真の善は我々の意識の深い内面的要求に従うところにあるとしている(29-35)

善は意志の発展完成にあるが、世間の道徳家はこの意志の活動的な側面を看過していることが多い。自己の要求を抑圧することが即善を意味するわけではなく、むやみに欲求を抑圧することは善に悖るとすら言える。
善はある一つの要求を満たすことではなく、その要求を全体との関係において深く満たすことである。
人格は天才の神来のように、各人の内部から直接・自発的に出てくる無限の統一力である。それは抑えることも止めることもできない声のようなものである。

「我々はむしろ日常の捉われたる自己を忘ずることによってかえって深く真の自己を見出す。かかる自己の要求の顕現として我々の前に見出される理想はもはや決して単に個人的主観的というが如きものではなくて広く社会的に妥当する客観的理想でなければならぬ*2かかる理想に生きる人にして始めて自己の私欲を破り得るのみならず他人の私欲をも破ることが出来る。(中略)。自ら真に私欲なき者にして始めて平然として他の私欲を破ることができる」(32-33)

我々の自己は私欲を滅することで他のどんな存在にも取って代わることのできない個性を獲得する。
真の善とは、そうした世界で唯一の個性をその根柢から深く生かすということである。
偉人の偉大さは成し遂げたことに存するのではなく、強大なる個性を発揮したことに存する。

真の個人主義は共同主義と矛盾しない。我々が深く個体として生きるというのは、共同的意識の中にあって自己の天分を発揮するということである。
我々が自己の鍛錬の末に真の自己へと到達することは、我々の自己が社会的となり、人類全体の愛も生じ、さらには宇宙の本体・神と融合するということである*3

6:西田哲学において、認識と論理の問題は常に実践と道徳の問題、神と宗教の問題に繋がる(35-39)

宗教の世界においては、絶対悪はどこにも存在しない。悪は実在体系の矛盾衝突によって生じるものだが、実在はこの矛盾衝突によって発展し、更に深い統一に達するのである。悪は善を生み出す力であるとも言える。

善の研究』は「其の誕生と共にやがて大なる樫の木として発展すべき運命を背負った双葉であった」(38)。

*1:柳田は前期や中期の西田哲学に固有の現代的意義・歴史的意義を認めないのだろうか?

*2:何故かここだけ「~でなければならぬ」という表現が使用されている。ところである理想が「広く社会的に妥当する」ことは何によって確かめられるのだろうか。

*3:真の自己→社会→人類→宇宙への拡大はこうスムーズに行くものなのだろうか。内なる葛藤に目を向けるのは良いが、制度的現実との葛藤はないのか。自己を如何に鍛錬したところで、制度は何らの変化を被ることはなく、制度的現実と自己の葛藤が解消されるわけではない。