読書メモ:長谷正當「絶対自由意志と象徴の世界―ベルクソンから見た西田哲学の位置づけ」(1994年)

 現在、私は柳田謙十郎の『実践哲学としての西田哲学』(1939年)を読み進めており、『自覚に於ける直観と反省』を扱う章に入っている。しかし、同書は西田自身が「悪戦苦闘のドキュメント」と述べていることからも分かるように、西田の著述の中でも論述が錯綜しており、論旨を理解するだけでも並々ならぬ苦労を強いられる著作である*1
 そこで、私は『自覚に於ける直観と反省』を読解した信頼できる論文はないかと探したところ、長谷正當氏の『心に映る無限 空のイマージュ化』(2005年)が蔵書にあるのをふと思い出した。今回、メモを取りながら読んでいくのは、その本に収録されている論考「絶対自由意志と象徴の世界―ベルクソンから見た西田哲学の位置づけ」である*2

第1節:経験と形而上学の乖離(177-184頁)

西田とベルクソンの共通性は「直接経験に立脚し、経験において形而上学や宗教が可能となる場を見出そうとする」ことにある(177)。両者が共通項を有しているのは単なる偶然の一致ではない。
「知識の確実な基盤として「経験」が捉えられてくるとともに、形而上学的的知が経験に基礎をもたないものとして、知識の外に排除され、否定される」と共に、「形而上学を失った経験はもはや全体や無限への展望をもちえず、その厳密ではあるが狭められた「経験」のもとで人間は自己自身の根拠へ帰る道を失って、無限に拡散し分解するに至った」(179)。西田とベルクソンの共通性はこうした思想史的背景と結びついて理解されるべきである。
cf.西谷啓治「西田哲学」
経験科学としての心理学の成立によって、人間の精神を自然科学的に考察することが可能となり、人間が超越への方向において自らを問うという道が塞がってしまった。ベルクソンと西田はこうした哲学の危機を深刻に受け止めていたのである。

同じ経験に立脚するものではあるが、西田やベルクソンの哲学はヴントやマッハ、ジェームズらの心理主義の哲学とは質を異にしている。
心理主義の哲学は「経験から哲学的なものへの一切の繋がりを排除するところに新しい哲学の立場を見出すものであり、経験をあくまで純粋な経験に還元するところに成立するものであった」(183)。旧来の宗教や形而上学が答えようとしてきた問いに答えうるようなものではない。

第2節:意味の世界と所与の原理(184-189頁)

西田が『自覚に於ける直観と反省』で取り組んだ価値と存在、意味と事実の結合という問題は、心身関係の問題へと重心を移した形で今日でも哲学的問題として存在している。また、自覚的体系の形式で全ての実在を考えるというのは、今日の哲学における「知の基礎」の問題に繋がっていると言える。

直観とは「物に備わった知、内容と一つの知」であり、「その知は物や事実をその内から透明化するものとして、いわば物や事実にもともと備わった知」である(185)。直観を感覚と言い換えることもできる。
西田はあらゆる客観的知識の根柢に直観・感覚を求めるが、その客観的知識の中には自然科学的な知識だけではなく、芸術・宗教・文化、価値や意味も含まれる

西田に即せば、直観は知識のリアルな根拠であり、その立場に立つことは認識主観における「所与の原理」を重視することである。
西田のリッケルト批判は、リッケルトが「所与の原理」を顧みておらず、それ故に知識の根拠を捉えられなかったという点に向けられる。西田がベルクソンに共感するのは、後者の直観の立場が「所与の原理」を根本としているからであった。
but
西田はリッケルトに対して否定一辺倒ではない。西田はリッケルトが人間精神を自然科学によって捉えようとする流れに抗し、価値や意味の領域に存在や事実の領域とは異なる固有の意義を付与したことは受容している。
西田が問題視するのは、リッケルトが価値や意味の領域と存在や事実の領域を峻別したことである。西田にとって、価値や意味は現実を超越したものではなく、現実の我々に働く力なのである。

西田やベルクソンにとって「直観においては内容は知識に対してたんなる受動的な素材ではなく、生きて働くもの、自発自展するもの」であり、直観は「あらゆる実在を内に包み込み、無限の広がりと深さをもつ」(189)。

第3節:ベルクソンと直観(189-194頁)

「認識主観における構成的思惟の働きが一種の「芸術的形成作用」の見地から見られてくるとき、「与えられた経験内容」はたんなる材料として与えられるのではなく、種々の関係や形式を内に含み展開する場となる。「所与の原理」はこうして拡張され、経験の全体を包むものとなる」(190)
直観の世界に我々の経験の全体が与えられ、現前している。そのため、直観の世界は無限に深いものである。また、認識構成以前のものであるが故にカントの物自体のようなものでもある。

ベルクソンは西田が言うような直観の世界の直接態を「本能」のうちに捉えているが、「本能」は直観そのものではない。「本能」は内に閉じている。哲学的直観は「本能」を直観の光の中へと高めることにある。
また、直観の世界は本能だけの世界ではなく、本能を超えた生命の創造的根源にも連なっている。

西田が直観について考察を深めたのは文化の世界を客観的知識として基礎づけるためではなく、「知識の成立の根拠をなす直観の世界をその深層に向かって掘り下げてゆくことによって、種々の知識あるいは種々の世界が経験の深みに開かれ、映し出されることを明らかにしようとした」(194)

第4節:西田のベルクソン批判、絶対自由意志の世界(195-204頁)

西田の絶対自由意志の世界は、時間による限定を含めた一切の限定を超えた世界であり、永遠とも言うべき世界である。
西田が言う意志とは一切の経験内容をその根柢で統一しているものであり、時間的でありながら超時間的なものでもある。『自覚に於ける直観と反省』の根本の主題はこの意志の深層を把握することであった。
※西田自身は絶対自由意志を最後の立場とみなしていなかったことに注意。後の立場からすれば、絶対自由意志にはまだ主語性が残っている。

ベルクソンにとって、純粋持続は一瞬たりとも過去に返れないものだが、西田にとって、意志は過去を繰り返すことのできる超時間的なものである。西田から見れば、純粋持続は時間による限定を免れておらず、相対でしかない。

時間を超える永遠の世界を従来の形而上学の二世界説のように、経験を超えた叡智界ではなく、我々に直接的な現実である記憶の世界に求めるところに、経験に立脚する西田の立場の独自性がある」(201)

絶対自由意志の立場には後の「無の場所」に繋がる考えが朧気ながらも示されている。「絶対無の場所はそこにおいて一切が映されている立場であるが、ここでは映すものと映される内容とが意志として一つに捉えられている」(204)

第5節:絶対自由意志と象徴の世界(204-210頁)

西田とベルクソンは共通かつ重要な問題をもう一つ抱えている。それは直接経験におけるイマージュの問題である。西田はイマージュの世界を象徴の世界と捉え、ベルクソンは情動の世界として捉えた。
西田もベルクソンもイマージュの問題を主題として取り上げていないが、それは両者の哲学の根本に通ずるものである。

西田にとって、文化や歴史、芸術や道徳、宗教の世界は絶対自由意志が自らのうちに自らを映した内容・影であり、それらは「象徴」や「想像(イマージュ)」と呼ばれる*3
象徴の世界において、意味と実在、存在と価値の統一が最も深い次元でなされる。
イマージュは永遠の影であり、可能性が最も深い実在性である。

ベルクソンにおいても、イマージュの世界は自他不二のところ、可能的な世界と現実の世界が融合・浸透するところである。
ベルクソンは「イマージュを生命の根源から創造的に産出されたもの、本能の底に沈んでいた感応が意識の光へ高められたものとしたが、西田はそれを絶対自由意志の影」とみなした(210)。

「文化や歴史の世界、芸術や道徳や宗教の世界を象徴やイマージュの世界として捉えることは、空想や非実在の世界に沈むことではない。それらをイマージュの世界として捉えることは、そこに自然的・直接的な限定された知覚の世界を超えた可能的な世界」、「限定を超えた不条理なるものの世界が開かれているということである」(210)
イマージュは最も儚い瞬間的なものでありながら、我々の直接的経験の中で最も深いものでもあり、最も高い実在に連なっている。
文化や歴史、芸術や道徳の世界の核心に接近することは、そこにおいて出会われるイマージュの固有性に接近することでもある。

 

*1:私の学生時代、ある先生は「西田の著作を『善の研究』から年代順に読み進めるというようなことをしてはいけない。『自覚に於ける直観と反省』で必ず挫折する。」という趣旨のことを仰っていた。

*2:この論文は元々、長谷氏が『西田哲学』(1994年)という論集に「西田哲学とベルクソン」というタイトルで発表したものである。

*3:この記述からすると、宗教もイマージュに含まれるのだろうが、208頁では西田はイマージュの根柢に宗教を見ているとされる。宗教はイマージュなのか、それともイマージュの根柢にあるものなのか。