読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第1編第2章

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柳田は西田哲学の根底に「実践的生命の躍動」があり、その哲学全体が実践哲学であると主張するわけだが(緒言を参照)、第1編第2章で扱われる『自覚に於ける直観と反省』は価値と存在、事実と意味がどのように結びつくのかを論じた書物である。これのどこが実践哲学あるいは倫理学なのかという疑問は誰もが思い浮かべるところであろうが、取り敢えずは読み進めていきたい。

※西田哲学の発展を追うことを標榜しているにも拘らず、「西田は何故純粋経験から絶対自由意志の立場に移行せざるを得なかったのか」という問題に触れていないのは不可思議である。

第1編:自覚的意志の倫理

第2章:絶対意志の自覚(40-78頁)

『自覚に於ける直観と反省』(1917年)は『善の研究』にける純粋経験の思想を発展させてより高度な統一をなしたものであり、最初の学的体系的統一であった。
「我々の意識に於ける経験の分化と発展との歩みは、やがて同時に純粋経験の直接的世界たる絶対意志の世界への還帰の歩み」である(41)。『自覚に於ける直観と反省』はそうした意識の遍歴を論理的に鋭く分析することで解明したものであり、西田哲学にとって、同書はヘーゲルの『精神現象学』に相当する著作である。
「何れにせよ我が西田哲学の全体系は将に本書によって其の不動の基礎を確立したものと云うことが出来る。かりに其の他の著書が一冊もあらわれなかったとしても唯本書のみによってもこの哲学は世界の哲学史に於ける独自な意義を有つものとなることが出来たであろう」(41)。

『自覚に於ける直観と反省』における根本思想は自覚の弁証法である。「自覚とは我々の意識に於ける直観と反省との内面的関係を明かにする弁証法的事実である」(41)
自覚に於ては自己は自己の作用を対象として之を反省すると共に、この反省をそれ自身が直に一の自己発展的作用として直観の性格をもつ」(42)
「自覚にあっては反省は一方自覚上の事実であると共に他方その創造的発展の作用でもある。我々は深く反省すればするだけ前進するのである。意識の動的統一にあっては統一其者が発展的動性をもっている」(46)

反省即発展の自覚の世界は連続の世界である。連続の世界においては、部分は常にそれに先だって直覚的に与えられた全体の限定として考えられる。全体は全ての部分を厚め合わせたものではない。
後年、西田哲学に「非連続の連続」という概念が登場するが、その根底には上のような連続観が存在している。西田哲学の非連続思想の根底には「普通の対象的連続論には見ることの出来ないような深い主体的ノエシス的連続思想が横たわっている」(56-57)

意識の世界から物質の世界を見るという考えに対しては、意識の成立以前にも物質は存在していたという反論が予想される。しかし「自然科学の考える如き宇宙発展の順序は経験界の一つの考え方」であり、「物理学的アプリオリによって定められた物理的時間から見た順序」に過ぎない。「宇宙の真の始めは星雲の昔にあるよりはむしろ一瞬一瞬の内面的想像の底にある」(63)
我々は何処まで行っても意識の範囲外に出ることはできない。

「現在とは経験の一体系が己を統一すると共に己を超越して他の体系に移りゆく点である、即ち己自身の根柢に還りゆく点である、故にそれは創造的進化の動きゆく先端と考えられると共に過去に還る反省の点とも考えられるのである。此の現在に於て我々の自己は真に自覚的となる」(70)

『自覚に於ける直観と反省』はその考察の出発点にあっては何ら実践的な問題を含まなかったが、その帰結において実践哲学の領域に深く分け入った。絶対自由意志の自覚的発展の体系が全ての理論的認識の根柢にあると考えられるようになった。
『自覚に於ける直観と反省』の真の出発点は自覚的意志にあったとさえ言える。
「西田哲学の世界にあってはいかなる理論の問題も決して理論それ自身の限界の中に終局するものではなく、其の根柢をば深く歴史限定的な実践的意志の自覚的能動性に求めんとする。科学にも芸術にも宗教にも夫々独自な意義を認めつつも尚それらの凡てが帰趨する処の焦点をば此の如き実在の創造的意志に置く処に此の哲学を一貫する一つの根本的特徴を見ることが出来る」(77)

西田哲学全体を実践哲学の体系とみなす解釈には異論の余地があるかもしれないが、西田哲学が実践の問題を中心軸とする無限発展的な動的体系であることに異論の余地はない*1

西田哲学は「道徳の世界すらも不断に踏み越えて行くような強靱な生命の実践的創造性が限りなく深く握まれてゆくのである。道徳に留まるものは尚真に道徳に生き道徳を生かすものであるということはできない。(中略)。限りなき誤謬と罪悪とにまみれつつも尚此の如き罪と悪とを通してでなくては遂に見出されることのできない様な実在の深底をあらわにし行かんとする絶対動的なファウスト的意志の立場に立たんとするものである。」(77-78)

 

*1:西田自身が『善の研究』再刊に際して付した序文を思うに、西田哲学の中心軸は根本実在への探究にあるという解釈もできるはずだが。