読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第1編第3章①79-103頁

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第1編第3章では『意識の問題』と『芸術と道徳』が読解されるわけだが、このメモ書きで取り上げるのは前者を扱った79-103頁にかけての部分である。ここまで読んできて分かったことだが、柳田独自の考えは専ら注に示されているので、そこを中心にメモしていきたいと思う。

第3章:道徳的意志

『自覚に於ける直観と反省』において「我々は其処にいわば一の新たなる生命の誕生のために不可避なる陣痛の悩みの跡を見る。激流巌をかみ飛沫は高く松籟を潤すと云ったような悪戦苦闘の趣のあるを見る。然るに「意識の問題」や「芸術と道徳」に到れば、此の苦闘を通して達せられた絶対自由意志の立場の確立によって視野はとみに開け、凡ての問題はこの立場の必然的な展開として内から自然にときほごされてゆく、流は深く水は豊かに燦たる太陽の光をあびて春の野辺を洋々と流れゆく大河に接するの想がある」(79)

『意識の問題』が明らかにしたこと
・感覚・感情・意志の三要素が質を異にしており、後者は前者を自己自身の中に深く主体的に統一することで具体的なものとなる。。
・意志を意識の最高最終の統一として意識の動的・立体的な先験的構造を明らかにした。
『意識の問題』は「単に一の心理学書として見ても我々の意識現象のきわめて深き統一的把握として永遠に輝く一つの古典たるべき価値をもつ」(79-80)。我が国の心理学者が『意識の問題』を読んで研究に反映させていないのはおかしい。

「感情の世界は知識の世界よりは更に深い人格的実在につながる高次的な世界」であるという西田哲学の見方には重要な真理が存する。「カントが感情の道徳的意義をあれほどまでに斥けながらも尚畏敬の情を一の先験的感情として我々の人格的意識の根柢に認めざるを得なかった所以」も、この真理に関係している(86-87)。

「当為がもし単なる主観的意志の底からのみ起るものとすれば、為すべきであるが故に為し能うということはいえない筈である。かかる事を言うことができるためには当為を命じる自己そのものが既に主体的客体的なるものとして、主客の対立をば矛盾的自己同一的に己れ自身の中に含むものでなければならぬ」(90)

「我々の意志は其始に於て物に接し其終に於て又物に接している」という考えは、後年の「形から形へ」という思想に直接結びつくものである(91)。
『意識の問題』に収録されている論文「意識の内容」において、西田哲学を貫く認識論的根本思想、つまり、認識の根底に実践的自我を置くという思想が明確化されたと言える。

「善とは内容を離れて形式的となることではなくて内容そのものに形式を与えることであり、相対の世界を棄てて永遠の世界に出ることではなくて相対の世界其者に永遠の意味を与えることである。どこまでも一つのものの分化発展として対立と矛盾とを通してかえって深く己れ自身の根柢に還る処に道徳的善の善たる所以がある」という西田の思想には、倫理学において、カント的な形式主義とシェーラー的な実質主義を具体的かつ根源的に統一する道が示されている(96)。
来たるべき倫理学はこの立場から道徳的な事実を把握していくことで、真の具体的な発展を遂げることができる。

『意識の問題』には「人間が真にイデヤ的形成的であり、当為的実践的たり得るのは、他の人間、人格「汝」に対する時のみである。単なる物に対する自己は亦物以上の物ではあり得ない」という思想が見られるが、ここに後に「私と汝」で展開される思想の萌芽を見ることができる(103)。

『意識の問題』においては個体の道徳的意義に関する考察が明瞭ではないが、同書の論理からするに、「個体即社会、社会即個体として我を失い我を忘じつつ此の世界に一あって二なき自己の使命を果しゆく処に我々の生命の真の道徳的意義が成り立つ」という結論が出てくる(103)。