読書メモ:田辺元「人間学の立場」(1931年)①第1節~第3節

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「京都学派の哲学と人間学」というテーマを考える際に必読の論文であり、「種の論理」以前・以後の思索の変化を追う上でも重要な論文であるため、メモを取りながら読むことにした。今回参照したバージョンは『田邊元全集』の第4巻に収録されているものである。「人間学の立場」は全集版で25頁の短い論文なのだが、その内容はドイツの主要な哲学者の人間理解が一通り検討されるという極めて濃密なものである。それ故、二分割せざるを得なくなってしまった。

※この論文において、田辺は我・汝・全体の3項を以て社会を考えようとしているが、これは後の「種の論理」の立場からすれば、抽象的に過ぎると批判されるであろう考え方である。我・汝・全体が個・種・類に変化するまでに、田辺の思索はどのような紆余曲折を経たのであろうか。

第1節(357-360頁)

現代哲学において哲学的人間学が重要な意味を持ってきたわけだが、そもそも人間学はどのような学問なのか。この問いに答えるのは極めて困難である。例えば、従来の哲学には「人間の理論的実践的創作的活動」を対象とする先験的純粋心理学という部門が存在するが、哲学的人間学は先験的純粋心理学とどこが異なるのか。
アウグスティヌス人間学フォイエルバッハ人間学においても、哲学的人間学と先験的純粋心理学の区別は明瞭ではない。これは両名が自己の立場に対する自覚が不充分であり、その限りにおいて抽象性を免れなかったことを意味する。

アウグスティヌス人間学は外的人間と内的人間を区別したが、宗教的欲求から精神の身体に対する優越を認めた。これでは両者の統一という問題は生じてこず、哲学の立場からは独断でしかない。「内的人間、外的人間の区別対立は、両者を統一する全体人間の人間学を要求せざるを得ない」のである(359)。
人間学は全体人間(心身の統一体としての人間)の在り方と構造を対象とする具体的な学問でなければならない。このとき、人間学は精神のみを対象とする先験的純粋心理学と明瞭な区別を有する。
メーヌ・ド・ビラン、小フィヒテハイデガーによる人間学の定義は「人間学は全体人間の学である」という田辺の定義と重なる。

第2節(360-365頁)

人間学は全体人間の学であって、単に一部分一方面より観たる人間の学でない」と定義することで、人間学と先験的純粋心理学を区別することはできる。しかし、人間学の内容と心理学の内容が似通っているという問題が存在する。これは人間学が心理学をはじめとする諸学の方法を借用していることに起因する。
フィヒテ宜しく、身体は生理学で、精神は心理学で、身体と精神の結合は形而上学で分析した場合、人間学は独自の立場を有せず、諸学の知見を寄せ集めたものということになってしまう。

「全体人間の認識は斯かる部分的人間の認識の合成として獲得せられるものではない。却って部分に先立つ全体として人間を考察する」必要がある。そのためには「全体としての人間が飽くまで全体として種々の仕方に於て存在するその在り方を明かにする」より外に道はない(360-361)。人間学固有の方法は存在論的方法である。

存在者としての人間は存在を離れて考察することはできないため、人間学固有の方法は存在論的方法の中でも、特に、ハイデガーが提唱した自覚存在的存在論(自覚存在論)の方法でなければならない。
自覚存在論が基礎的存在論という学的形態において成立するならば、存在論人間学には何らかの相違があるはずである(ハイデガーはその解明を将来の問題としているが)。田辺は存在論が存在の自己解釈的な立場に終始するに対し、人間学が「存在の自己解釈と存在者の弁証法的規定との相互媒介的統一」であることに両者の相違を見る。
「存在者の弁証法的規定」における「存在者」とは世界内存在のことではなく、むしろ世界内存在と解釈することを許さない人格のことである。
「自我は一の個体的人格として他の個体的人格たる汝と対立し、而して斯かる我と汝とを其内に成立せしむることに由って之を相互に媒介する人格の共同体こそ、如何にしても世界内存在として解釈することを許さざる存在者」であり、別の存在者に内在化させることができない真に超越的な存在者である(363)。
「全体的共同体は我に対する汝を媒介としてのみ我に現れる」(364)

世界内存在として我に所属すると解釈されるものが存在論的であるならば、超越的存在者の弁証法的規定は存在的である。存在論的規定は存在的規定によって真に具体的なものとなり、存在的規定は存在論的自覚を媒介とする。

「自覚存在論人間学の方法として必要なる条件を成すが、それは個体適任現存在を孤立せしめて、唯其関心的交渉のみを解釈するに止まり、斯かる個体的人間そのものの弁証法的存在性を無視する結果、全体的共同体の制約、之を媒介とする個体的人間の我と汝としての対立共存を了解することができない。此等は如何にするも自我に所属するものとして内在化する能わざる絶対的超越存在者の、自我の存在に対する根柢たり限定的制約たることを弁証法的に信憑して、其媒介に由り自覚存在論的解釈を具体化するのでなければ了解せられるものでない」(364)

「絶対的超越存在者の永遠性が現在の瞬間に於て、過去、未来の相互転入の超時間的媒介たると共に、過去、未来の分裂の危機Krisisたるに由り、時間性に於ける永遠の実現としての歴史性が成立する」(365)

人間学は「弁証法的なる存在的存在論的自覚」を方法としなければならない。

第3節(365-369頁)

フォイエルバッハは『将来哲学の根本命題』で「我と汝との共同体に於ける弁証法的存在として人間存在を解釈する」立場にまで到達した(365)。
ハイデガーの自覚存在論には超個人的全体における人間の共同存在を解釈する道がない。ハイデガーが言う世間は個人を超えるものではなく、個人以下の存在でしかない。
カール・レーヴィットハイデガー存在論フォイエルバッハの共同存在の人間学の方向へと発展させようとしたが、これは慧眼である。

ハイデガーによる時間の分析は卓越しているが、それが専ら未来に於ける可能の自由計画に着目されるため、「過去の被限定性と未来の自由性との相互転換の岐機にして同時に媒介たる現在の永遠性を認め」るに至らず、時間制から歴史性へと進む道が失われた(366)。

ハイデガーの立場では、超越も個人的存在の内部における観念的な超越に止まり、実在的超越にまでは到達できない。シェーラーが言う「宇宙に於ける人間の位置」を自覚することもできない。ハイデガーの自覚存在論弁証法人間学の抽象的契機に留まっている。

人間学は全体人間の自己に対する在り方の自覚であるが、人間の在り方は同時に絶対的存在者に対する相対的存在者としての自己の弁証法的位置、他の相対的存在者との共同存在、の自覚の相互媒介を通じてでなければ自覚されない」(366)
「神に於ける霊的生は即ち歴史的なる相対的存在の随所に現前する絶対空の自覚に於ける実践的行に外ならない*1」(367)

田辺同様、ディルタイハイデガーの「存在論的差別」に反対しているが、だからといって両者の思想は同じものではない。田辺の人間学ディルタイ的な「生の哲学」とは異なる。ディルタイが言う「存在論的無差別」は存在と存在者の間に存する対立を自覚することなく、両者を直接統一するものである。そこに我に対立する汝や全体は存在しない。
結局、ディルタイの思想はロマン主義の抽象を脱しておらず、相対主義から抜け出す道も存在しない。

 



 

 

*1:晩年の実存協同を思わせる箇所である