読書メモ:田辺元「人間学の立場」(1931年)②第4節~第5節

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「京都学派の哲学と人間学」というテーマを考える際に必読の論文であり、「種の論理」以前・以後の思索の変化を追う上でも重要な論文であるため、メモを取りながら読むことにした。今回参照したバージョンは『田邊元全集』の第4巻に収録されているものである。「人間学の立場」は全集版で25頁の短い論文なのだが、その内容はドイツの主要な哲学者の人間理解が一通り検討されるという極めて濃密なものである。それ故、二分割せざるを得なくなってしまった。

第4節(369-376頁)

ディルタイ的な「生の哲学」の最も深刻な欠点は、フィヒテの連続的力学観を踏襲したばかりに、我に対立するものとしての汝・全体を把握し損ねたことにある。
そうなった原因は「我が我を我に於て働かせるという、身体の活動に現れる我の行為者としての存在が、それ自身の性格に於て認められて居ない」ことにある(369-370)。
フィヒテの知識学は「働く者なき純粋なる働きとしての純粋事行」をその体系の基礎に据えたが、それは「身体に於て限定せられたるノエマ的我を絶対的なるノエシス的我が働かせるという原始的弁証法」を無視したものである。

我の定立は「身体的に限定せられたる我を、無限定にして真に無限なる絶対的の我が我に於て働かせるという弁証法的統一の自覚に置いて成立する」。言い換えると、「我は働くことに於て在るのでなく、同時に在ることに於て働くのである」
この矛盾を媒介するのが身体である。身体性は対象化できないノエシス的身体において初めて成立するノエマ的身体もノエシス的身体を根柢とすることで他の物体と区別可能になる。
我の身体は我を我として存在させる限定の根拠でありながら、我が我の限定を超えて無限の絶対的全体に還る媒介となるものである。この矛盾の統一が身体性である。

行為とは還る動性を意味するものであり、我の限定根拠としての身体を働かせて絶対的全体が要求する合目的的方向に向かわせることである

ハイデガーの自覚存在論における解釈学的方法は「生から遊離せられた単語の解釈を主要な手掛かり」にしており、これは身体性の閑却である。
道具が生の表現であるためには他者性を有している必要があるが、その他者性は身体に固有な超越性に由来する。
内在と超越、相対と絶対、時間と永遠、個体と全体のような矛盾が統一されるのは身体の弁証法的存在に於いてのことである。
「人間の存在は身体の弁証法的性格に於て始めて具体的なる解釈を見出す。人間学が存在的存在論的自覚でなければならぬというのも人間の存在が本来身体的だからである」(372)。

フォイエルバッハ人間学は人間の身体性に着目している。その意味で、田辺が提唱する人間学フォイエルバッハの伝統に連なるものであり、フォイエルバッハに存した抽象性、つまり、共同性の根底を成す全体の閑却を脱却しようとするものである。

マルクスエンゲルスによるフォイエルバッハ批判は「人間の全体に於ける弁証法的存在を初めから人間存在の本質とし、而してその弁証法的存在の媒介として身体を認め、器具乃至生産機械を身体の延長として了解するならば、全体的共同社会を生産組織が階級に分裂せしむることは、恰も身体の部分的肥大が生の統一を破る如く非定常態として揚棄せらるべきものと解せられ、歴史の進行が全体の実現という方向を道徳によって追求すべき所以を示すことに由り、脱却せられるであろう」(374)。
真の社会的実践は歴史の「法則の指定する可能性の範囲に於て、個々の人格が自己と全体との関連の目的論的必然性を反省し、道徳的自由行為に於て自己を働かせることに成立する」(374)

人間の存在は、具体的なる身体性の媒介に由り歴史的社会的存在を含み、而も各現在の道徳的行為に於て弁証法的に永遠の超越的全体を実現する個体の存在として、了解せられる」必要がある(374-375)。

地縁共同体や血縁共同体も共同社会の身体としての性格を有する。「地球が人類の身体である」という言葉は単なる比喩ではない。
この点からして、ヘーゲル人間学において地方心なるものの存在が認められているのは意義深いが、それ以上に重要なのは、ヘーゲルの意識発生に関する見解である。
ヘーゲルは「意識を以て心的生命の自然からの開放、其自由なる行動に由る自然の支配、の反省に発生の根拠を」認めており、これはベルクソンの意識論にも通じる深い洞察である。「身体の弁証法ヘーゲル初期の思想に於ける精神現象学の位置に、其対象たる意識そのものの弁証法的根底をも了解する人間学を置く、ということも出来なくはない」(376)

第5節(376-382頁)

アウグスティヌスによって人間存在の三段階(①動物的身生、②人間的心生、③精神的霊生)が確立されたと言える。「人間精神の規定が自覚の明証に基づけられ、あらゆる外延的量的規定が排せられて、全体的統一の存在様態が主として考えられている」点にアウグスティヌスの画期性があるが、宗教的超越主義と歴史的内在主義の対立が統一されることはなかった。
そうなった原因は「身体性の閑却」と「実践的行為の観想への従属」にある。

「心はそれの存在に於て身体の限定を受けると同時に、身体を媒介として共同体に繋がり、それを通じて永遠の超越的全体を実現し、これに帰入するものである。是に由って行為が永遠の意味を有する歴史的の実践となるのである」(378-379)
永遠の超越的全体は「対象的に限定すべからざる絶対空ともいうべき超越的全体の大用は、唯現実の歴史に於ける社会的規範の動かんとする方向に於て微分的にのみ現前し、之を通じて飛躍的に全体の目的論的必然が我の行為を規定するに止ま」り、「夫々の現在に於けるそれの歴史的顕現を通じてのみ飛躍的に信ぜられる」(379)

超越的全体に対する信仰に於て、身体の感性的実用的規定が消滅するわけではない。その規定は維持されるが、同時に「それが全体の目的論的必然に由って、個体的欲望が全体の為めに犠牲にせられ個体が其身体と共に否定せられる苦悩と、其犠牲に由って全体の中に復活する歓喜とが、矛盾的に結合せられる」(379)

「第三段階の霊的生にも第一段階の身的生は契機として入込み、而もそれが個体的自我の限定根拠として、個体を全体から独立せしむるのみならず反抗せしめさえもする可能性を蔵するに由り、超越的全体と真に実在的対立をなしつつ、同時に飛躍的転入転換の動的結合を形造るのである。此動性が即ち第二段階の心的生に外ならない。此意味に於て三段階は不可分離なる弁証法的動的統一を成す。これが人間の存在にして其本質的構造である」(379)
霊を神に、身を子に、心を霊に比するならば、身・心・霊は三位一体を形成すると言える。
シェーラーが生命に人間存在の実現の原動力を、精神に目的方向の統制力を配し、両者の相互採用こそ存在の二原理であると主張したのは正当であるが、シェーラーの人間学弁証法存在論による基礎付けを欠いている。

田辺は「人間学弁証法的解釈に対し身体性が基礎的意義を有することを信じ、心身の関係は古き形而上学の仮説的構成と異る、人間の現実存在の自己解釈としての人間学の、中心問題を成す」と考える(380-381)。

弁証法は否定の原理を単なる自己の内にも外にも見出すのでなく、外にして内なる所に見出すが故に弁証法となる」(381)
「自然は精神の否定の原理として精神の外にあると同時に精神の内にあるのである。(中略)。人間に対する自然は具体的には斯かる自然の外にはない。(中略)。我々の認識と行為と希望との係わる世界は斯かる自然と人間との弁証法的統一に現れる世界の外にはない。斯かる世界は飽くまで人間の自覚に於て明にせられる」(381)

人間学とは「基礎的なる自覚存在論」を其抽象契機として含む具体的な基礎哲学そのものである。このような弁証法的自覚の人間学は「汝自身を知れ」という課題に対応するものであり、哲学そのものである。
人間学とは哲学の特殊部門ではなく、哲学そのものの立場である。
弁証法人間学が哲学そのものの立場であるとするならば、今や歴史は哲学的人間学を要求するのみならず、更に人間学的哲学を要求するというべきである。我々は単なる哲学的人間学に止まらず、進んで人間学的哲学に到らねばならぬ」(382)