読書メモ:中村雄二郎『現代情念論』(1962年)第1編第1章+著作集第1巻解説①(1993年)

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 中村雄二郎パスカル研究者としてキャリアを出発させた後、すぐに独自の哲学の構築に乗り出している。そんな中村が最初に取り扱ったテーマは情念論であった。2021年の今であれば、哲学者が感情(情念)の問題を扱っても特に不可解なことではないわけだが、中村が情念論の構築に着手した1950年代末には事情が違っていたようである。また、中村が情念に注目した経緯も現代の哲学者のそれと異なっている。それを知るために、『中村雄二郎著作集』第1巻の解説と『現代情念論』第1章のメモ書きを作成した次第である。
 なお、後者は著作集第1巻に収録されているバージョンを参照した。

中村雄二郎著作集』第1巻解説

勁草書房から処女作『現代情念論』(1962年)が出た当時、情念という語自体が世間に広く流通しているわけではなかった。中村本人は「デカルトやアランの<情念論>の問題意識を受け継いだれっきとした哲学の仕事だと信じていた」が、一般の読書人から色恋を扱ったものだと勘違いされることもあった。一方、専門の哲学者(矢内原伊作など)からは好意的な評価を得たという(355)。

中村が情念論に注目した2つの理由

パスカルからの影響
中村は元々物理学を専攻していたが*1、敗戦以前以後で物事の価値が一変したことに衝撃を受け、価値や意味の問題を扱う哲学を専攻するようになった。その際、中村が研究対象に選んだのはパスカルであった。それはパスカルが近代知の意義を十分に把握した上で、近代知を鋭く批判していたことに惹かれたからである。
今日に到るまで、中村の哲学的思索はデカルトパスカルに導かれている。中村はパスカルのようにデカルトを批判するだけではなく、デカルト的な立場からパスカルを批判する(cf.ポール・ヴァレリー)という両輪で思索を進めてきた。情念論はデカルトパスカル双方にとっての主題でもあった。

②合理主義偏重の傾向に抗して

戦前、非合理的な国家主義が跋扈していた反動として、戦後は合理的な思想が称揚されるようになった。中村は合理性を過信する当時の傾向に強い危惧を抱き、合理的なものと非合理的なものは如何なる関係にあるべきかという原理的な問題に取り組む決意を固めたのだという。

中村は個人のレベルで考えられていた従来の情念論から、社会のレベルにまで拡張された情念論を構築しようとした。その中で、中村は魔術を近代知とは異なる知とみなす見方を得ると共に、イメージの働きを重視する立場を構築した*2

『現代情念論』第1章:デカルトから現代へ(3-20頁)

第1節(3-6頁)

いかに合理的な技術・制度が発達したとしても*3、人間から衝動的、非合理的、無意識的な情念が消え去るわけではない。情念の問題は「最終的には回避しえぬ問題であり、また、回避したり蔑視したりするとき手きびしい報いを受ける問題」である。これはわかりきったことのように思えるが、時々思い返すべきことである(3)。

近世以前、理性は神に属するもので、感情は人間に属するものとされたが、それ故に人間における理性と感情の対立は問題にならなかった。人間における感情が問題となるためには、理性が人間に属するものとみなされる必要があったのである。
「人間的理性の哲学者デカルトとともに、近代のはじめの十七世紀に、感情の問題が自覚的に問題として大きくとりあげられ、ここに<感情>論の新しい発展の糸口が開かれたことは、十分うなずける事実であり、同時に意味深い事実である」(4)

感情と理性は対立するものであると同時に絡み合うものである。感情と無関係な合理主義は存在しない。
ナチズム、スターリニズムマッカーシズムを見れば分かるように、合理主義文明のなかには、非合理的な剥き出しの力に転化し得るものがどこにでも含まれている。

第2節(7-11頁)

デカルトの情念論で注目すべき点は「人間の心の複雑なはたらきが、物との的確な対峙のうちに、真理、感情、感覚といったとらえ方よりもより身体的な基盤から、つまり<情動>や<情念>としてとらえられている」点である(9-10)。
スピノザの感情論では肉体=物体と心の対峙関係が見られないが、感情の持つ積極的な機能(身体の活動能力を増幅させる機能)が考慮されている。これはデカルト的な<感情>の対象化を推し進めたものとしての現代心理学の盲点を突く議論である。
デカルトは人間が外界としての外的自然に対して自由であると主張したが、外界の物象化が進んだ現代、人間は外的自然(組織を含む)からの影響を受けざるを得ない。つまり、「個人の能動性と自由を減殺する逆方向の力が働く」のである。故に、「個人的な古典的<情念論>は、社会化された<現代情念論>に改編」される必要がある(11)。

第3節(11-15頁)

デカルトは<高邁>の心を以て情念を統御することを主張したが、外界が個人に影響を及ぼすようになった今日、それだけでは不十分である。高邁の心による情念からの自由だけでは、個人の外界からの自由は保証され得ない。
現代情念論において、情念は「制御されるだけでなく、人間社会のフィードバック的原理の原動力として、つまり個体としての自己保存や外界への適応のためだけでなく、有機的な人間社会の自己革新のために問題」にされる必要がある(12)。

スピノザの能動感情に関する議論は抽象的であるが故に、近代的自我が陥りやすいペシミズムを免れることができる。スピノザの<感情論>の現代的意義はこの点に存する。

外界に働きかけるだけではなく、外界から働きかけられる存在として人間を捉える場合、前者のみを念頭においていたデカルトのように、個人的意識の立場から情念を考えるのは不十分である。無意識も考慮に入れなければならない。
フロイト的な無意識心理学を単なる思想のスキャンダルのなかにとどめておかずに、もうそろそろそこから汲みとるべきものを十分に汲みとるべき」である(15)。

第4節(15-20頁)

フロイト的な無意識の心理学は「合理主義的な近代科学の分析的方法」によって生まれたものだが、その分析的立場の徹底によって、綜合的・実体的・形而上学的なものへの転化の可能性を含んでいる(15)。
実体的・形而上学的という語は非科学的として退けられる傾向にあるが、その機能をはっきり認めて活用する必要がある。実体的なもの・形而上的なものは<創造的観念>(byスザンヌ・ランガー)として機能しうる。

<イデー>による把握
→機能的・分析的・抽象的な把握方法。科学の本質はここに存する
<イメージ>による把握
→実体的・綜合的・具象的な把握方法。芸術の本質はここに存する
この2つの区別はランガーによる<論弁的シンボル体系>と<現示的シンボル体系>の区別に通じるものがある。

<現代情念論>は、総じて意識と無意識との関係へ大きく眼を見開くことによって、機能主義的、分析的方法と、実体的、綜合的方法との接点を見出し、人間と人間、物と人間との正しい関係の回復を、科学のみならず芸術を通して行うすべを見出すことをめざす」(17) *4

三木清は『構想力の論理』でイデーに対するイメージの根源性を示そうとしたが、「イメージの復権を強調しようとするあまり、イデーとイメージの機能分化が明確にとらえられていない。イデーとイメージの綜合のうちに<構想力の論理>をとらえようとしているわけだが、それぞれの機能をはっきりさせていないために、綜合が真の意味での綜合になっていない」(18)

アンリ・ルフェーヴルはイメージが<世界>、つまり全体に関わるものだという注目すべき見解を提出したが、その見解を理論的に掘り下げようとしなかった。
掘り下げを遂行するには、アナロジー、特にトマス・アクィナスが言う<存在の類比>の問題やアリストテレスの『詩学』における模倣論に新しい照明を当てる必要がある。

 

 

 

*1:この物理学を学んだ経験は、後に自己の哲学を構築する際に自然科学の知見を積極的に参照するという姿勢に活きてくることになる

*2:これは後年の議論に通じる見方・立場である。

*3:2021年の今であれば、技術や制度が合理的思考の産物であるという見方も問いに付されるであろう。

*4:中村哲学の総決算的著作『述語的世界と制度』を彷彿とさせる記述である。また、現代では、情念を考える際に無意識の領域に注目するというのは何ら目新しいものではないが、この本が出た1962年当時は新鮮に映ったのかもしれない。