読書メモ:西田幾多郎『善の研究』(1911年)序文+第1編第1章

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 私は京都学派の哲学に関心を持ったのは田辺元の「死の哲学」に惹かれてのことであり、最近になるまで西田幾多郎の哲学にはあまり魅力を感じなかった。それもあって、西田のテクストを直接読んだ経験は乏しい。自力で『善の研究』と『思索と体験』を読み、大学の講読で「論理と生命」及び「場所的論理と宗教的世界観」を読んだ経験しかない。無論、田辺が西田から受けた影響の大きさは重々承知していたが、私は二次文献を読んで事足れりとしていた。
 そんな私だったが、ここ数ヶ月、故あって中村雄二郎の主要著作を読むなかで、西田哲学の魅力に気づかされ、自分でも実際に読んでみたいと思うようになった。とは言え、西田の主要な論文を読み通すだけでも、下手をすると数年分の余暇が必要になることが予想される。そこで、さしあたり処女作『善の研究』を読むことにした。それ以降の論文を読むかどうかは終わってから決めたいと思う。

 なお、今回私が参照したのは新版『西田幾多郎全集』第1巻に収録されているバージョンである。また、いつもであれば、読む著作がどのような著作であるのか手短に説明するのだが、『善の研究』については本職の研究者―それも第一線級の―による解説が数多く存在する。敢えて一般人たる私が何かを言う必要はないと思われる。解説については省かせて頂く。

序(6-7頁)

第3編は第2編で述べたことを基に善を論じた章だが、これを独立した倫理学とみなすこともできる。
善の研究』というタイトルを付けたのは、この本の中心・終結が人生の問題であることによる。
純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいというのは、余が大分前から有って居た考えであった。初はマッハなどを読んで見たが、どうも満足はできなかった。其中、個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別よりも経験が根本的であるという考から独我論を脱することができ、又経験を能働的と考えることに由ってフィヒテ以後の超越哲学とも調和し得るかの様に考え」た(7)。

版を新にするに当って(1936年、3-4頁)

1936年当時の西田の立場から見れば、『善の研究』の立場は意識の立場・心理主義的とみなされる。
純粋経験の立場は「自覚に於ける直観と反省」に至って、フィヒテの事行の立場を介して絶対意志の立場に進み、更に「働くものから見るものへ」の後半に於て、ギリシヤ哲学を介し、一転して「場所」の考に至った。そこに私は私の考を論理化する端緒を得たと思う。「場所」の考は「弁証法的一般者」として具体化せられ、「弁証法的一般者」の立場は「行為的直観」の立場として直接化せられた。此書に於て直接経験の世界とか純粋経験の世界とか云ったものは、今は歴史的実在の世界と考える様になった、行為的直観の世界、ポイエシスの世界こそ真に純粋経験の世界である」(3)
西田はどういうわけか「実在は現実そのままのものでなければならない、所謂物質の世界という如きものは此から考えられたものに過ぎない」という考えを抱いていた。少なくとも、高校生の時点でそのような考えにたどり着いていた(4)。

第1編:純粋経験

第1章:純粋経験(9-15頁) 

「経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といって居る者も其実は何等かの思想を交えて居るから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいう」(9)
純粋経験と直接経験は同じ意味の語である。
自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識と其対象とが全く合一して居る。これが経験の最醇なる者である」(9)
「真の純粋経験は何等の意味もない、事実其儘の現在意識あるのみである」(9)

純粋経験は全ての精神現象の原因である。「純粋経験はいかに複雑であっても、その瞬間に於ては、いつも単純なる一事実である」「純粋経験の上から見れば凡てが種別的であって、其場合毎に、単純で、独創的である」(10)

現在意識の現在とは意識の焦点のことである。つまり、「純粋経験の範囲は自ら注意の範囲と一致してくる」(11)
純粋経験は必ずしも単一の感覚ではない。断崖をよじ登る場合や動物の本能的動作を考えれば分かるように、主客未分の状態のまま意識の焦点を移すことは可能である。
瞬間知覚と「知覚の連続」の差は質的な差ではなく、程度的な差である。

純粋経験の純粋性・直接性は、純粋経験具体的意識の厳密な統一であることに存する。分析不可能であることや瞬間的であること、単一であることに存するわけではない。
「意識は決して心理学者の所謂単一なる精神的要素の結合より成ったものではなく、元来一の体系を成したものである」(11)。
多様な意識状態は意識の体系から分化発展したものだが、どこまで分化発展しても元の体系の形を失うことはない。

知覚的経験は注意が外部の存在による影響を受けるので、意識の統一とは言えないという反論が予想されるが、知覚的活動の背後にも無意識統一力が働いている。注意はその力に由来する。
表象的経験は主観的所作であるため純粋経験とは言えないという反論も予想されるが、意識の統一が必然的で自ら結合するときは純粋経験とみなさなければならない。
「経験に内外の別あるのではない、之をして純粋ならしむる者はその統一にあって、種類にあるのではない。表象であっても、感覚と厳密に結合して居る時には直に一つの経験である。唯、之が現在の統一を離れて外の意識と関係する時、もはや現在の経験ではなくして、意味となるのである。」(12)

意識の体系は「統一的或者が秩序的に分化発展し、其全体を実現するのである。意識に於ては、先ずその一端が現われると共に、統一作用は傾向の感情として之に伴って居る。我々の注意を指導する者は此作用であって、統一が厳密であるか或は他より妨げられぬ時には、此作用は無意識であるが、然らざる時には別に表象となって意識上に現われ来り、直に純粋経験の状態を離れるようになる」(12-13)
「統一作用が働いて居る間は全体が現実であり純粋経験である」(13)

意識は全て衝動的であり、その根本形式は意志である。意識発展の形式は意志発展の形式であり、意識の統一傾向は意志の目的である。「純粋経験とは意志の要求と実現との間に少しの間隙もなく、其最も自由にして活発なる状態である」(13)
「意志の本質は未来に対する欲求の状態にあるのではなく、現在に於ける現在の活動にある」(13)
「思惟も意志と同じく一種の統覚作用であるが、その統一は単に主観的である。然るに意志は主客の統一である。意志がいつも現在であるのも之が為である」(13)

純粋経験は混沌無差別の状態ではなく、自己のうちに差別相を有している。意味や判断は純粋経験そのものの差別より生じる。「意味或は判断の中に現われたる者は現経験より抽象せられたるその一部であって、その内容に於ては反って之よりも貧なるものである」(14)。意味や判断によって純粋経験に何かが加わることはない。

意味や判断は現在の意識を過去の意識と結合するところに生じるもので、より大きな意識系統の中に現在の意識を統一しようとする作用に基づく。
意識が「厳密なる統一の状態にある間は、いつでも純粋経験である、即ち単に事実である。之に反し、この統一が破れた時、即ち他との関係に入った時」、意味や判断が生じる(14)。
ただし、上で言う意識の統一・不統一(統一の破れ)は程度の差を表したもので、質的な差を表したものではない。完全に統一された意識も、全く統一されていない意識もない。
純粋経験と意味・判断は意識の両面であり、意識の見方の相違に過ぎない。意識は統一性を有すると共に、分化発展の傾向を有するのである。
「現在はいつでも大なる体系の一部と見ることが出来る。所謂分化発展は更に大なる統一の作用である」(15)
なお、純粋経験は大なる統一において現在を超越しない。「たとえその統一作用が時間上には切れて居ても、一つの者と考えねばならぬ」(15)。