読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第1編第3章②103-134頁

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第1編第3章では『意識の問題』と『芸術と道徳』が読解されるわけだが、このメモ書きで取り上げるのは後者を扱った103-134頁にかけての部分である。

この頃の柳田の文章にも西田同様「~でなければならない」が頻出するわけだが、これが「~である」の言い換えなのか、それとも「現実にはそうなっていないこともあるが、理念的にはそうなっていなければならない」の意味なのかの判別が容易でない。

第3章:道徳的意志

『自覚に於ける直観と反省』がヘーゲルの『精神現象学』に比すべき書物であるならば、『意識の問題』は『論理学』、『芸術と道徳』は『精神哲学』に比すべき書物であると言える。
『芸術と道徳』では「問題は意識の領域より文化の領域にうつり、真善美の文化価値の哲学的本質が明かにされ、この三者間の形而上学的関係がその根柢から究明される。しかも之らの文化価値創造の歴史的生命の終局の原理が、反省即発展、前進即還帰としての自発自展的な絶対意志の自覚に置かれている処に、我々は西田哲学の深き実践哲学的性格を見るのである」(103)

芸術的直観は単なる直観ではなく、表出運動を通して見る作用それ自身の直観的内容である。それ故に「観照と創造との間には根本的な区別はない。観照そのものが既に創造的生命の感情的動性を離れては成立たないのである。見ることに即して我々の感情が真に生きるものとなるとき、そこに芸術的鑑賞というものが成り立つ」(108)

「我々が行為するということは実在を特殊化して矛盾の中に生きることであるが、而も我々はこの矛盾に徹することに於てのみ実在の根源的統一たる具体的一般者の世界に還り行くことが出来るのであり、しかもこの還帰が単なる還帰でなくて同時に実在そのものの自覚的発展を意味するものである処に我々の行為の道徳的価値が存する」(112)
この無限に深く豊穣な思想は「一面に我々の情意に直接的に訴えるものをもつと共に、他面我我の悟性的思惟に対して割切れない或るものを残す」。この難解さは個体と一般との弁証法的関係を念頭において読めば、その8割弱は解消するだろうが、より論述が明快になるのは後期の西田哲学(弁証法的世界の論理)に於いてである(112-113)。

「真摯なる生命の要求を離れては芸術もなければ道徳もない。所謂勧善懲悪を以て芸術の手段と考える如きはもとより幼稚なる芸術観にすぎないが、芸術を反道徳的と考えるのも真に深く芸術を解するものではない。芸術に於ける肉の歎美、悪の同情の底にも全人格の光がなければならぬ。人生という大きな曲線の一弧線として描かれる所に此等のものの芸術的価値が存する」(113)

「カントは法則には何等の内容もあってはならぬ、唯純真に法を敬するの念より行えというが、我々が法を敬するということは実は同時に其内容を敬することでなければならぬ」(120)
「カントが汝の格率が一般的法則となる如く行えと云い、自己及び他人の人格を目的として取扱えといったのも、其の本来の意味は我々の純なる作用の内容を対象化する勿れということでなければならぬ」(121)

「論理の形式は必ずしも内容の真を要求しないが、道徳の形式は常に内容の善なるを要求する形式」である(122)。

「深く真理を求めるものが遂に哲学的真理に至らざるを得ないのは、知識そのものの根柢が人格的統一の要求にあるからである。哲学の真理は凡ての対象的真がそれに於てある所の人格的真理でなければならぬ」(124)
学問や芸術は人間性の真の向上、その真に具体的な発展にとって必然的な道である。

純粋な道徳の立場に於いては、他人を愛すると同じくらい自己をも愛さなければならない。「宋襄の仁」のようなものは無闇に自己を他のために犠牲とするもので、自他の区別に拘泥した立場と言わざるを得ない。
「我々の純なる自覚的意識にあっては意識一般の立場を自らの中に含むことによって客観界を自己の中に溶解するが故に、対象化された自己と他人との区別の如きものは本質的区別を成すに到らない」(131)
「真の道徳は衆愚の意見に従う所にあるのではなくて、自我の根柢たる具体的一般者の自覚的発展として自己を無限に個性化しゆくことでなければならぬ」。多数であることは直ちに道徳的善に結びつかないという意味に於いては、ニーチェの貴族的道徳にも理があると言える(131)。

社会とは「夫々の個体が一般的なるものの特殊化の極限として、己れ自身の中に一般的なるものを含む行為的現在となることによって絶対自由意志の自覚的創造につながるということでなくてはならない」。(132-133)
社会が個人に対して有する権威は一般者の価値創造性に基づく必要がある。

「真の道徳的善とは我と汝とが共に一般的なるものの特殊化として人格の自由をば個性的身体的に現実化することである*1」「我々の使命は単に他人を感覚的に幸福にすることにあるのではない。自己の私心を破り汝の私心を破ることによって夫々の個体的生命をば創造的人格として深く生かすことである*2」(133)

「西田哲学の倫理は単なる個人主義でもなく、又単なる全体主義でもなくて、個性主義の倫理である。個性的とは我々の自己が深く一般者の自己限定として人格的となり、特殊に於て一般を包むものとなるということである」(133-134)

 

*1:身体的という語はどこから出てきたのか。後期の「歴史的身体」を意識して『芸術と道徳』を読んだのだろうか?

*2:自己の私心はともかく、汝の私心を破るような行為は汝からの憎悪・攻撃を誘発することになると思われるが、そのとき自己はどう振る舞うべきなのか