読書メモ:クラウス・リーゼンフーバー「純粋経験と絶対意志」(1994年)

 1994年、故上田閑照氏が編者となって『没後五十年記念論文集 西田哲学』が岩波書店から出版された。大橋良介氏、野家啓一氏、故新田義弘氏ら第一線級の研究者が寄稿していることもあり、2021年の今も読まれるべき価値のある論考が多数収録されている。

 今回取り上げるクラウス・リーゼンフーバー氏の「純粋経験と自由意志 ―『自覚に於ける直観と反省』における意識の構成―」(村井則夫氏が日本語訳したもの)はその巻頭を飾る論文である。従来、『自覚に於ける直観と反省』は西田哲学の発展過程における通過点とみなされがちだったが(今もそうかもしれない)、この論文は『自覚に於ける直観と反省』に後期西田哲学にも劣らぬほどの深い考察があると主張する点において特色を有している。また、同書における絶対と相対の関係について詳しく考察した箇所(第5章)があるのも特徴的である。
※思うようにまとめることができなかったが、これが今の私の能力の限界であることを正直に認め、恥を忍んでそのまま公開する次第である。

第1節:序(5-8頁)

「ある思想家を理解するとは、思想家自身にもおそらくは自覚されていない基本的動機として思索を導き、そのあらゆる発言を有機的に結び合わせているある根本的関心にまで遡り、そこからその思想を解釈することである」(5)
様々な著作にわたる思索の連続的進展が認められる場合でも、その各々の段階は、単なる発展の記録に留まらない内容的な重要性を持っている。」(5-6)

善の研究』における西田の根本的関心は「真実在」への問いにあったと言える。
「西田は、意識を動かすと同時にその運動を統括する根本的力を究明することによって、実在に近づくことを試みた」(6)。この方向性は『自覚に於ける直観と反省』でも変わることがない。

『自覚に於ける直観と反省』は後期の著作に見られるような徹底的な思弁の持つ構成力はなく、西田自身も「悪戦苦闘のドキュメント」と評している。そのため、従来の西田哲学研究において『自覚に於ける直観と反省』は軽視される傾向があった。
しかし、同書は「意識と実在に関する一つの完結した理解へと歩みを進めており、この理解は、分節化された個別的構造を具えた意識の体系を実現するものではないにせよ、意識の根拠と根源についてのそこでの叙述は、深さと記述の的確さにおいて後期の著作に少しも劣るものではない」(7-8)

第2節:純粋経験(8-11頁)

西田は個別的・感覚的知覚をモデルに純粋経験に関する思索を展開している。「個別的で、それ自身の内に安らう知覚は、思考や想起などによってそれに付加される、外的で単に志向的な関係をことごとく脱落させ、それによって意識の活動と意識内容の充実した実在性との相互の完全な合致を保証する」(8)
西田の経験概念は一見すると西洋哲学に伝統的な経験概念と遠いものに思えるが、その意図は「ユダヤキリスト教的伝統における伝統的な経験理解、すなわち、知によっては確証しえない根源的存在からの要求に担われ、内面的深層で神の意志の霊的経験にまで深まるような経験理解により多くの親近性を持っている」(9)

「『善の研究』においては、意識におけるすべての質的差異をその連続的結合と相互の均衡に解消する試みがなされたが、このことは経験論に見られるように一切の本質的差異を均質化することだけを意味するわけではなく、むしろ、意識の根底的統一をその根源的活動のままに見抜く洞察を開くものであった」(11)

第3節:事行としての自覚(11-15頁)

西田は純粋経験についての思索を展開する際に、個別的・感覚的知覚をモデルとしたが、これは経験を能動的な遂行として捉えようとする西田の意図に反するものだった。これにより、意識を受動的なものとして理解する経験論的な前提が議論に入り込むことになった。
そのため、「経験の持つ行動の構造は十分に解明」されず、「経験の担い手としての意識の概念は、最終的には展開が妨げられ、それと同時に経験主観そのものへの問いも放置されることになった」(11)

『自覚に於ける直観と反省』において、西田は「具体的な直観を表出する意識作用と理論化を行う反省の両者を、その共通の根としての自覚(自己意識)に差し戻す」ことを目指している(12)。
「自己意識とは能動的な自己遂行であり、つまりフィヒテの言うように、自らによって、自らにおいて、自らを通して自己を完遂する「事行」なのである」(13)
「実在ないし存在は、根源的にはこの能動的な自己遂行において把握されるが、その際にそれらは純粋な実在そのものとして把握される」。実在はアリストテレス的なエネルゲイアとして自らを現わすのである。それ故、「純粋経験の根源的形態は表象や知覚のうちにではなく、自己意識そのもの、すなわち未分化で無媒介的な知的直観そのもののうちに求められる」(13)。

第4節:意志としての自覚(15-19頁)

『自覚に於ける直観と反省』における意志とは「多様な作用への分化に先だった自己意識の根源的活動」のことであり、「あらゆる意志遂行を通じて自らを意志し、そこにおいて自らに触れ、能動的現実としての己れ自身を内的に掴む」ものである(16)。

意志は過去の影響を受けることがない。それどころか「それぞれの「今」において自らを新たに産み出し、自らに対するこの創造的な能働性にもとづいて、自身の過去の痕跡を新たに形成された現在のうちへと組み込むことができる」(17)

第5節:絶対意志(19-27頁)

西田の考察は「道徳的意志が神の絶対意志における自らの根源へと超越する事態」にまで至るが、そこにおいて「超越論哲学の中心問題」、つまり、「自己意識のうちで何らかの内容が、自己意識の活動性に解消しえないものとして自らを示すことは如何にして可能であるのか」という問題に直面する。
西田は「自己意識が自らへと還帰することを通じて、自らの構成作用をそれに先行する根拠に由来するものとして把握することによって、つまり自己意識は、自己把握の只中で、絶対的なものによって把握されたものとしてしか自らを把握しえない」と考えることで、上の問題に解決を与えた(19-20)。

「人間の意志は、神の意志によってまさに自由意志として成立し、それゆえに神の意志と対面するために、人間の自由意志には、神の意志と一致するという道徳的・宗教的使命が本質的に具わっている」(22)

純粋経験は純粋な現実そのものを洞察することによって、唯一の絶対的に純粋な現実としての神の意志に、人間の自己意識を直接に触れさせる。このような神の意志との直接の接触のうちにこそ、純粋経験の核心がある」(22-23)
「直接に出会われながらも把握を拒む純粋な現実を、その無限性と無制約性において超理性的に洞察することこそが、純粋経験の最も深い本質である」(24)

「有限的存在が創造的無の絶対意志から発現するという意味での自由な創造は、人間の自由の内的な可能の制約として超越論的に、また有限な現実の根拠として存在論的に、さらに純粋経験の核心の開示として認識論的に示される」(25)

純粋経験は知覚よりも先に歴史的世界のうちにこそ成立するがゆえに、ここにおいて経験と歴史についての新たな思惟が課せられる。つまり、歴史そのものの具体的な錯綜と無際限の開放性の只中で、如何にして純粋な現実とその絶対自由意志とが経験されうるのかが問われなければならない」(26)