読書メモ:野家啓一「歴史の中の身体 ―西田哲学と現象学―」(1993年)

 今回取り上げる野家啓一氏の論文「歴史の中の身体 ―西田哲学と現象学―」は雑誌『現代思想』の1993年1月号で発表された後、『没後五十年記念論文集 西田哲学』(岩波書店、1994年)に収録された。今回参照したのは後者のバージョンである。

第1節:行為と身体の哲学(75-79頁)

西田幾多郎は身体の重要性に注目し、それを自己の哲学の中核に据えた日本初の哲学者である。西田は「身体の現象学」とは独立に、自己の哲学の内発的な動機から身体論を構築していった

高橋里美は「西田哲学について」で西田の身体論に注目しただけではなく、それをフッサールによる身体への言及と結びつけている。同論文が1936年に発表されたことを思えば、高橋には先見の明があったと言える。
後期の西田哲学において、絶対無の場所は弁証法的世界や歴史的社会的実在の世界と呼ばれるようになった。高橋はこれが「絶対者の相対化、無限者の有限化、永遠者の時間化」として否定的な評価を下しているが(これ自体は西田哲学の急所を突いた鋭い批判である)、野家氏は敢えて肯定的に評価する。歴史的・社会的関心を肯定的に評価することで、西田の「歴史的実在の世界」と後期フッサールの「生活世界」が繋がってくるからである。

西田哲学の日本的独自性を無闇に強調することは、西田哲学を「鎖国化」する行為である。「西田哲学の「世界性」を再認識しようとするならば、われわれは西田の「行為と身体の現象学」をフッサールメルロ=ポンティが形作っていた同時代の哲学的文脈の中に置き直してみなければならない」(79)

第2節:1890年代の思想(79-83頁)

西田哲学を「世界的同時性」において捉えるとは、西田が「同時代の西欧の哲学者たちと同じ時代精神を呼吸し、同じ問題意識を共有し、同じ哲学的課題を背負っていたという単純な事実を思い起すことである」(79)
西田が青年期を過ごしたのは1890年代だが、これは世紀末の10年に当たる
善の研究』の時期に西田が積極的に参照していたマッハ、ベルクソン、ジェームズの3人は「実証主義の反逆」とも言うべき姿勢が共有されている。3人は「自然科学による意識の分析や説明を排し、直接的体験の地盤に立ち戻ることを要求した」という点で一致している(80)。西田にもそうした姿勢がある。
だからといって、西田や3人は非合理主義者ではない。西田は「自然科学のさらに根底に降り立って、人間存在の実相を究明する道を選んだ」のである(82)。
西田は自らをロマン主義の伝統に位置づけているが、その自己規定は詩人ではなくドラマチストである。ここに弁証法の哲学者西田の面目がある。

第3節:フッサールとの対峙(83-88頁)

フッサールもまた「実証主義への反逆」という姿勢を共有する哲学者だが、西田のフッサールに対する評価は先の3人に対する評価に比して異様なほど低い。
西田はノエシスノエマという語をフッサールから借用しているが、それ以外にフッサールからの影響は見られない。
「西田は現象学デカルトに端を発する近世主観主義の伝統の中に位置づけ、その経験概念や意識概念が主観主義の立場を克服しえていない」と見ていた(84)。
西田はフッサールの構成的現象学の方法を「内的直観の立場」とみなし、客観的世界を捉えることができないと批判する。こうした批判を見るに、西田は現象学的還元や志向性といった概念の意義を十分に理解していないことが窺える。
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西田のフッサール批判はその「意識概念がなおも近代哲学のパラダイム、すなわち超越/内在の区別および意識の三項図式(作用-内容-対象)という古典的枠組の内部に留まっていることを鋭く突いている」(86)
ただし、この批判は後期のフッサールには妥当しない。
西田がフッサールを批判する際に念頭においていたのは『論理学研究』や『イデーンⅠ』であって、後期の遺稿群は一切参照できなかったことに留意する必要がある。
もし西田が後期のフッサールの思想を知り得たなら、そこに自己の分身を見出しただろう。
西田は「現象学批判を一つの発条にして後期西田哲学、すなわち「行為的直観」と「歴史的身体」の立場へと踏み込んだ。そこで展開された哲学的世界は、私見によれば、ほとんど後期フッサールメルロ=ポンティによって描き出された「生きられた世界」と見まがうものであった。西田の言う「行為的直観を遂行する歴史的身体」とは、乱暴を承知で言えば「生活世界に内属した身体=主観」のことにほかならない」(87-88)
西田は無自覚のうちに「身体の現象学」の問題系に接近していたのである。

第4節:「意識的自己」から「身体的自己」へ(88-92頁)

後期の西田は行為的直観と歴史的身体という2つの概念を以て、経験、直観、意識など近代哲学の中核をなす諸概念を内側から解体構築しようとしたと言える。
西田は「ウィトゲンシュタインとともに「ザラザラした大地」へと立ち戻ることを要求し、ニーチェとともに「肉体と大地」の意義を強調した哲学者だった」(89)

西田は「宙に浮かんだ空虚な理性を身体の大地へ根付かせること」、「宙に浮いた抽象的理性を「歴史的実在の世界」の中へと根付かせること」に取り組んだ。前者は20世紀の現象学が引き受けた課題であり、後者は20世紀の哲学的解釈学が引き受けた課題である。
「西田は前者の問題意識を現象学者と共有し、身体的認識としての「行為的直観」の概念を提起したことにおいて「運動感覚(キネステーゼ)」の体系として身体を捉えたフッサールと肩を並べ、さらに後者の課題に踏み込んで「歴史的身体」という独自の視界を切り開いたことにおいて、あくまでも超越論哲学の枠組の内部に留まったフッサールに一歩を先んじた」(90)

1930年代半ばの時点で、西田が身体の両義性に着目していたことも特筆すべきことである。「西田が「非連続の連続」や「矛盾的自己同一」という難解な表現で言い表した当の事態をメルロ=ポンティは端的に「謎」と」表現した(91)。
cf.三宅剛一『人間存在論』- 身体について考察する際にメルロ=ポンティを参照。
西田は「身体の二重現象」をメルロ=ポンティより10年ほど先に発見したのである。

第5節:「歴史的生命」の目的論(92-100頁)

フッサールの身体論が「運動感覚(キネステーゼ)」の体系を基盤とした身体の「共時的」分析であったとすれば、西田の「歴史的身体」の概念は、身体の「通時的」分析に新たな道を拓くものであった」(92)

「真に肉体的に生きるもののみ、真に行為的に物を見るのである。世界が自己の身体となるのである」という西田の言葉は「心は身体に即して考える」「世界はほかならぬ身体という生地で仕立てられている」というメルロ=ポンティの言葉と響き合う(93-94)。

西田が歴史的身体を道具や言語を使用する身体と捉えていたことも注目に値する。手を行為的直観の器官、脳を内部の手と理解する西田の洞察は示唆に富むものである。また、「話す身体」という西田の発想はメルロ=ポンティの言語論に近いものである。
後期の西田哲学は「深化されるべき様々な主題を萌芽状態のままに含んだ豊穣なマグマとも形容できる」(95)

西田の学問論はフッサールが危機書で展開したそれと極めて近い。両者は共に学問がその真理の基盤たる歴史的現実の世界=生活世界に立ち返るべきことを主張する。
西田が主張する思惟の歴史性に対しては、現象学の立場から「フッサールの『危機』の中にそうした歴史相対主義的方向を見つけ出すことはできない、彼は生活世界を<手引き>とする第二の還元を遂行することによって、生活世界すらも超越論的主観性による構成の所産であると考えていた」という反論が予想される(97-98)。
この反論は妥当であるが、野家氏は「西田がフッサールのように「究極的基礎づけ」を徹底化する方向をとらず、かえって高橋里美が批判した「理性の歴史内在化」の方向へ突き進んだこと」を評価する。それによって「西田はフッサールがなおも固執した近代哲学の「基礎づけ主義」的パラダイムを乗り越える方途を切り開いた」とからである(98)。

フッサールの危機書はヨーロッパ的人間の自己実現という歴史の目的論に貫かれているが、西田は歴史の目的論を「歴史的生命」の自己実現として捉えている。西田はフッサールよりも普遍的な地平に立っていたと言える。
※西田が日本民族中心主義から完全に無縁であったかという問題は別途検討を要する。
最晩年の西田は「歴史的生命の目的論」と言うべき哲学的境位を構想していた。

結論:「『善の研究』における純粋経験から出発して行為的直観と歴史的身体によって編制される「歴史的現実の世界」に至った西田の歩みと、『イデーンⅠ』において確立された純粋意識の立場から身体と間主観性とを軸とする「生活世界」の現象学へ至ったフッサールの歩みとは、まぎれもなく同じ一つの軌跡を描いていた」(99)
高橋里美は西田哲学を「危機と不安の哲学」と評したが、これは至言であった。