読書メモ:中村雄二郎『現代情念論』(1962年)第1編第2章

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中村雄二郎の『現代情念論』に関しては重要だと思われる章だけメモを取りながら読んでいくことにした。今回取り上げる第1編第2章はアランとサルトルの情念論を検討した箇所であり、参照したバージョンは『中村雄二郎著作集』第1巻に収録されている方である。

第2章:情念論の社会化

第1節(21-26頁)

サルトルの想像力に関する考察はアランに負うところが大きい。

アランの所説は認識と判断の両面においてデカルト的合理主義を継承・徹底したものであった。サルトルは明示しなかったが、このことは情念の身体的意味や理性による情念の支配をめぐるアランの所説にはっきり出ている。
アランは対象の真実を探究するものとしての知覚と、虚偽の知覚としての想像力を峻別し、後者を情念・身体に属するものとした。その上で、アランは理性による情念、精神による身体、人間による物質の支配を説いた。

アランの情念論はデカルト的合理主義を実践的な支配の方法としての二元論に徹底したものだが、サルトルの想像力論はデカルト哲学の反対の側面、客体・物に対立する物としての意識の自立・能動性を追求する方向に向かった。
「アランが意識の能動性を、客体つまり対象をうることによって、いわば<受肉化>し、現実化する方向をとっているのに対して、サルトルでは、客体を必要としない意識、いや、客体を<空無化>する意識である想像力に、もっとも人間的な働きを認め、<現実界>に対する独自な領域として<想像界>を定立した」(26)

デカルト的な二元論では、意識と物、精神と身体、主体と客体という対立が存在するが、情動、情念、想像力はどちらに属するかはっきりしない曖昧な物である。
アランは情念や想像力を後者に全て還元することで、正確な認識と判断を守ろうとした。一方、サルトルは情動や想像力こそ真に人間的な現実だとした。

第2節(26-33頁)

「アランの所説には、深い知恵を含んだ真に実践的な意味での機能主義、技術主義があり、そこには、人間に人間としての輪郭をはっきり保たせる上からいっても、精神衛生上からいっても大いに健康なものがある」(26)
17世紀に生きたデカルトの情念論は心身の生理学的なものに留まったが、20世紀に生きたアランの情念論は個人的な領域を超えて社会的な営みにもわたるものとなった。
アランの情念論には市民社会への信頼が前提として存する。

アランの情念論には制度論的な視角が存在するが、不十分なものに留まっている。それはアランがリヴァイアサンのようなメタファーや自然法則のアナロジーで社会・国家を説明しようとしたことに起因する。
集団の中の人間の問題を考察するには、生理学的情念論から、深層心理学的情念論に移行する必要がある
「生理学的情念論が、個人としての個人―集団のなかでの個人に対する―における理性による情念支配を、生理-情念のメカニズムの認識にもとづいて行うのに対して、社会的自我における情念の統御を、集団を基底に持つ無意識-情念のメカニズムの認識にもとづいて行うものである」(33)

第3節(34-44頁)

科学的な心理学は人間の心理に関する事実を蒐集することに注力しているが、いくら事実を集積したとしても、人間の本質にたどり着くことはない。ここに人間学として致命的な欠陥が存する。サルトルはそうした欠点を克服すべく、現象学的手法を用いて情動を扱おうとする。
サルトルにおいて「考察は人間という綜合的全体から出発され、一切の人間的現実は本質的に意味を持つもの」となり、「情動があるのはまったくそれが意味を持つかぎりにおいてである」とされる(35-36)。
サルトルは情動に関する古典的な学説が情動の目的性を十分に理論化していないと批判する。また、精神分析は情動を意識の行為とみなさないという点で誤っているものとされる。「情動的行為の有意味論的な性格を解明する情動論は、現象学をまたなければならない」(37)
サルトルが情動の問題を追及する際のやり方と方向は、想像力の問題のそれと軌を一にしている。

サルトルはジェームズの末梢説→ピエール・ジャネの行動心理学→ゲシュタルト心理学という情動論の心理学的発展を機械論から目的論へという流れで解釈しているが、それは一面的である。この発展を生理-心理的機械論から深層心理的機械論、つまり、機械論自身の自己脱皮と見ることもできる。
「情動のトポロジーの全体的把握は、集団の持つ無意識性に対する意識的なものとしての個人という問題に、つまりは社会のなかでの個人の情念論の問題に、われわれを導く」(39)

サルトルは『情動論粗描』で精神分析を批判しているが、その批判はクリティカルなものではない。

サルトルが情動を意識の行為として意識のうちにみることにおいて、われわれはサルトルと袂を分かつ必要がある。ただ、サルトルによる情動の現象学的考察は洞察を含むものではある。特に、情動を魔術の問題と結びつけ、魔術的世界としての社会的世界の構造を解明したことは注目に値する。

サルトルは『存在と無』においてもフロイト批判を行っているが、それに対する中村の見解は以下のようなものである。
「意識による明証のみが、真理保証の唯一のものではない」
現象学的立場からするサルトルの意識の弁証法は、それなりに多くの示唆深い分析をもたらしてはいるが、人間は必ずしもサルトルのいうようにいつでもまなざしによって見たり、見られたりし合っている存在ではないこと。特に集団化する場合に、このことがいえる」
サルトルは非反省的自己意識をも含めて意識としてとらえる自己の用語法とフロイトの用語法とのずれをほとんど考慮することなく、一方的に批判しているところがある」(44)