読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第2編第1章

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 今回読んでいく箇所は『働くものから見るものへ』と『一般者の自覚的体系』という西田哲学で最も難解と言われる部分を論じた箇所である。西田の足跡をそのまま辿るというアプローチ方法を採用していることもあって、その難解さはほとんど軽減されていないような気もするが、元が難解なので仕方ないのかもしれない。

第2編:無の自覚の倫理

第1章:場所の論理(135-192頁)

西田哲学は論文「場所」を「枢軸として一の異常なる転回を成就すると共に、之によって其の後の無限に豊かなる発展の礎地を造ることとなったのである。しかし此の転回は西田哲学的思惟の生々たる自己発展的行程にとっては、何らの奇蹟でもなければ偶然でもない。恰も卵から雛への転化が外から見ればいかにも突然の変化でもあり異常の出来事でもあるかの如く思われるにしても、其処には何人によっても動かすことの出来ない内的必然性がある」(135)
「前進が即ち還帰であるということは西田哲学を一貫する深き思想形態の一つをなすものであるが、このことは何よりもまず西田哲学自身の思索の発展の自発自展的行程そのものによって自証されねばならなかった」(136)
西田哲学にとって、論文「場所」は変化や転回ではなく深化をもたらしたものである。

「真に経験内容をうちに含み之を合理化する純粋統覚は単に表象に伴う形式的なIch denkeでなく、表象そのものを自己の表象となす具体的一般者でなくてはならぬ」(142)
論文「働くもの」において既に場所概念の萌芽が見られると言って良い。

「無限に自己の中に自己を映すということから働くものを導き出すことができるのである。働くということは有限なる一般者が自己の中に無限の内容を映そうとする所から起ってくるのである」(147)

一般的に意志の自由は行為の自由を意味するが、「対象に対する作用に関するもの」として行為の自由を捉える限り、それは対立的有無の場所を超えたものではない、「我々はいつでも対立的無の場所に於ける意識作用(対象から独立した作用)に即して自由意志を意識する」が、我々が相対無の立場を超えて絶対無の場所に入るとき、自由意志も消滅する。そして、「作用が映されたものとなると共に意識も映されたものとなる」(150-151)

「我々の真の自己は何処までも深い所にある。凡ての概念を絶した世界、主語的統一の成立しない世界に於てあるのである。而して斯かる世界が我我に最も直接な世界である」(159)

「当為は単なる意識的自己から起るのではなくて意識と対象とがそれに於てある所の叡智的自己の底から起るのである」(171)
行為も単なる主観的意識から起るのではなくして、叡智的自己の底から起るものである。「主観が客観を限定し客観が主観を限定するものとして叡智的自己が自己自身の内容を表現すること」である(171-172)。

「宗教の哲学は其自身直ちに宗教そのものではない。宗教の世界に入るには(中略)、仏の方より行われて心身共に救われるのでなければならない」(177)

意識面に於てあるものは常に何物かを志向するのであるが、かくして志向せられたものは実は之を背後から限定している自己の内容に外ならないのである。故に客観的知識成立の根柢にはいつでも直覚がなければならない。叡智的自己が自己自身の内容を映す限り客観的知識が成立する」(180-181)

我々の意識的自己とは自己自身を直観することなくして唯無限に自己自身の直観に達せんとするものである。故に無限の進行である。しかも意識作用に於ては自己の無限の行先が自己に於てあるのである」(183)
自愛的自己の要求とは叡知的自己が自己自身を見んとする無限なる過程を現わすものである」(185)

「喜ということは自己が自己自身の発展を見ることである。其処には先ず自己を内から動かす要求がなければならない。衝動的要求ともいうべきものがなければならない。衝動的要求とは自己自身を見ようとする努力である。主客合一の直観に到ろうとする過程である」。主客合一の直観に至るまでの一歩一歩において我々は喜びを感じる(187)。

我々の生の目的は死ぬことにある。全ての生命の根底には死と悲哀がある。我々は「いつでも悲哀を通して自己自身を見るものに至る」。苦痛や悲哀は自己自身の消滅を見ることであり、自己自身の悲しみを見る限定面は自己自身の喜びを見る限定面よりも広い。
我々が叡知的ノエマから限定されるという事は固より叡知的自己が自己自身を見るということに外ならないのであるから、それは結局更に大なる自己の限定に従うということ、自己自身をより深く見るということに外ならない」。それ故に、人間は得意げになっているときよりも、失意に悩んでいるときの方がより深く人間的であるといえる(188)。

「我々が真に社会的生命に生きるということは単に身体的に他と接触して生きるというが如きことではなくて自己が自己自身の存在のノエシス的根柢に還り、深く当為に直面する」ということである。「社会とは単に自己の前に或は横にひろがる処のノエマ的空間的なるものにつきるものではなくて、我々の存在がそれに於てありそれに於て始めて己自身を限定し来る所のノエシス的根柢である。かかる叡知的ノエシスの底に還ることによってのみ我々は自愛即他愛、他愛即自愛なる深き自己同一に達する」(192)