読書メモ:西田幾多郎『善の研究』(1911年)第1編第2章

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前回に引き続いて、西田幾多郎の『善の研究』を読み進めていきたい。今回も『西田幾多郎全集』新版第1巻に収録されているバージョンを参照した。

第1編第2章:思惟(16-24頁)

判断は独立した二つの表象を結合するものだと思われているが、実際には一つの全き事象を分析するものである。「判断の背後にはいつでも純粋経験の事実がある」(16)。推論によって生じる判断においてもそう言える。
純粋経験と思惟は別種の精神採用と考えられてきたが、「関係の意識をも経験の中に考えて見ると、思惟の作用も純粋経験の一種である」(17)。
知覚は受動的・無意識的、思惟は能動的・意識的とみなされているが、知覚と思惟に絶対的な区別はない。意識的な知覚というのもある。また、「思惟であっても、そが自由に活動し発展する時には殆ど無意識的注意の下に於て行われるのである、意識的となるのは反って此進行が妨げられた場合である」(18)。
「我々が全く自己を棄てて思惟の対象即ち問題に純一となった時、更に適当にいえば、自己をその中に没した時、始めて思惟の活動をみるのである。思惟には思惟の法則があって自ら活動するのである。我々の意志に従うのではない。」(18)

知覚は具体的な意識で、思惟は抽象的な意識であるという見解も存在するが、「思惟は心像に対する意識の反応であって、而して又心像は思惟の端緒である」(19)。思惟と全く無関係な心像はなく、心像と全く無関係な思惟もない。

意識の意味は他との関係、つまり、その意識の入り込む体系によって決まる。「意味の意識である或心像であっても、他に関係なく唯それだけとして見た時には、何等の意味を持たない純粋経験の事実である。之に反し事実の意識なる或知覚も、意識体系の上に他と関係を有する点より見れば意味を有って居る、唯多くの場合に其意味が無意識である」(20)
我々は意識体系の中で最大・最深の体系を客観的実在を信じ、思想及び知覚の真偽はこれに適合するか否かを基準に判定される。
「知識の究竟的目的は実践的であるように、意志の本に理性が潜んで居る」(20)
「意志は意識統一の小なる要求で、理性はその深遠なる要求である」(20)

意識は元来一の体系である、自ら己を発展完成させるのがその自然の状態である、而もその発展の行路に於て種々なる体系の矛盾衝突が起ってくる、反省的思惟はこの場合に現われる」(21)
「矛盾衝突の裏面には暗に統一の可能を意味して居るのであって、決意或は解決の時已に大なる統一の端緒が成立する」。
思想は必ず実践に現われなければならない。つまり、思想は純粋経験の統一に達しなければならない。純粋経験の事実は我々の思想のアルファにしてオメガである。
思惟は大なる意識体系の発展実現する過程にすぎない、若し大なる意識統一に住して之を見れば、思惟というのも大なる一直覚の上に於ける波瀾にすぎぬ」
「真の純粋経験とは単に所働的ではなく、反って構成的で一般的方面を有って居る、即ち思惟を含んでいる」

純粋経験と思惟とは元来同一事実の見方を異にしたものである」
純粋経験は体系的発展であるから、その根柢に働きつつある統一力は直に概念の一般性其者でなければならぬ、経験の発展は直に思惟の進行となる、即ち純粋経験の事実とは所謂一般なる者が己自身を実現する」(22)。
経験をありのままに知るという意味に解するなら、単一的なものや受動的なものは純粋経験の状態にあるとは言えず、むしろ構成的・能動的なものが真に直接なる状態である。

「個体を離れて一般的なる者があるのではない、真に一般的なる者は個体的実現の背後に於ける潜勢力である、個体の中にありて之を発展せしむる力である
特殊と対立するものは一般ではなく特殊である。
「個体とは一般的なる者の限定せられた」ものであると考えると、論理的にも思惟と経験の差別はなくなる。
「真の個体とはその内容に於て個体的でなければならぬ、即ち唯一の特色を具えた者でなければならぬ、一般的なる者が発展の極処に到った処が個体である」(23)
単に物質的なものを以て個体と解するのは唯物論的独断である。
純粋経験の立場からすると、経験を比較するにはその内容を以て比較するべきである。

思惟と経験とは同一であって、その間に相対的の差異を見ることはできるが絶対的区別はない
経験は時間、空間、個人を知るが故に時間、空間、個人以上である、個人あって経験あるのではなく、経験あって個人あるのである。個人的経験とは経験の中に於て限られし経験の特殊なる一小範囲にすぎない」(24)