読書メモ:中村雄二郎『現代情念論』(1962年)第1編第4章

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今回は中村雄二郎の『現代情念論』第1編第4章「コミュニティと民主主義―深層心理学とマルクーゼを手掛かりに」を読んでいく。2021年の今からすれば、マルクーゼを参照しながら現代社会の問題を考察するというのは極めて新鮮に思える。しかし、1960年前後、世界的にマルクーゼが読まれていたことを思えば、当時は特に新鮮だと映らなかっただろうという気がする。
なお、『中村雄二郎著作集』第1巻には第1編第4章が収録されていないため(何故かは不明)、1994年に出た講談社学術文庫のバージョンを参照した。

第1編第4章:コミュニティと民主主義

第1節(82-88頁)

民主主義はその古典的形態において、平等と自由が結びつくと信じられていたが、今日の大衆民主主義は画一化を通して平等化を進める一方、個人の自発性・自主性という自由を毀損している。
古典的な民主主義の立場からすれば、大衆社会化は拒絶されるべきものだろうが、技術の進歩に伴う大衆社会化の進展は既定路線である。そうであるならば、古典的な民主主義を墨守するのではなく、大衆社会化を受け入れた上で、平等と自由(全体の原理と個人の原理)の新しい結びつきを求める必要がある。

第2節(88-97頁)

『自由からの逃走』におけるフロムの分析は示唆に富むもので、特にファシズムの心理を鋭く分析している。その一方、フロムが提唱する積極的自由は内容に乏しい。
民主主義はコミュナルなものを否定すると同時に、コミュナルなものから吸い上げられるエネルギーによって始めて成立するものである。フロムには自由やデモクラシーを現実に成立・根付かせる条件、「ロゴス的なものに対するエトス的、パトス的条件についてのリアリズムの目が欠けている」(89)。

民主主義的組織はコミュナルなものとアソシエーショナルなものの複合体である。コミュナルなものは衝動的、情念的、無意識的なものを結合原理とするのに対して、アソシエーショナルなものは意志的、知性的、意識的なものを結合原理とする。
つまり、民主主義的組織は意識的なものと無意識的なものの複合体・二重構造と解することができる。

フロイトは組織されない集団についての考察を行ったが、その反対の極、つまり組織化の方向には官僚制の問題が存在する。
「組織がオートマティズム化するとき、ここでは「超自我」は、その本来のあり方のように「自我」の発達にともなって形成されるのでもなければ、「組織されない」集団のばあいのように「イド」のエネルギー充当の対象として―「自我」を通りこして―形成されるのでもない。ここで「超自我」は、「イド」や「自我」と無関係に人工的に形成され、いわば「イド」に対して逆流する」(92)

「父」の権威が弱くなった大衆社会において、自我・超自我・イドの相互作用はオートマチックなものになる。本能は能動的・力動的なものであるが、それが静学的になる。このとき、自我は超自我に、個人は全体に順応するだけになる。また、個人は行き場を失ったイドによって言いようのない不安と焦燥感に襲われる。
こうした事態を打破するには「拡散したイドを自我に収斂させ、また、自我をイドとむすびつけることによって、外部から機械的に与えられた超自我の枠組み」を突破する必要がある(94)。

民主主義を現実化するには、制度の整備や意識的な運用だけでは足りない。民主主義は「日常化され、生活のなかに融けこみ生かされるとき、はじめて本当に人間のものとなる」。ここでいう日常化とは「集中化された意識の所産を慣習化することいよって無意識との間に通路をひらくこと」である(95)。
※これはC・G・ユングの意識と無意識の相補性という考えに基づくものである。

「自我のコミュニティからの剥離は、対象化という意識作用に由来する。対象化は、主体の客体に対する働きかけ、それに主体の客体からの独立を可能にするが、他方また、主体の客体からの孤立ももたらす」。実存的な不安・孤独はコミュニティから剥離・孤立した自我の孤独である(96)。
「人間は死ぬときは一人である」「死がおそろしいのではない。死を考えることがおそろしいのだ」という言葉は、死によって無意識の生活が終わることへの、意識生活の側からの恐怖である。
この恐怖は「無意識生活でのコミュニティの存在を示すものであり、また、意識生活での合理的な新しい結びつきへの欲求を示す」(97)。