読書メモ:中村雄二郎『現代情念論』(1962年)第1編第5章

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今回は中村雄二郎の『現代情念論』第1編第5章「美と政治の感性的基礎―サルトル「ジュネ論」にふれて」を読んでいく。第5章は著作集第1巻にも収録されているが、図書館の返却期限が来てしまったため、やむなく1994年に出た講談社学術文庫のバージョンを参照した。

第1編第5章:美と政治の感性的基礎

第1節(98-104頁)

中村は長らく「美と政治」という関係図式・対立図式で原理的な諸問題を捉えることの、特に日本における必要性・有効性について考察しようとしてきた。
トーマス・マン「政治とは審美主義に対する救済手段である」
ここでいう、審美主義とは情感のうちに自己を埋没させたり、観照のうちに充足を感じたりする受動的態度のことであり、救済手段としての政治は外部に対する積極的な働きかけとして理解されている。
審美主義は現実に対して無力だとされるが、そのときの「現実」とは政治化された現実である。美と政治の関係がトーマス・マンのように捉えられるためには、状況が政治化されている必要がある。

状況の政治化は政治の過剰支配、政治の原理的貫徹と言い換えることができる。
政治は人間生活の一機能に過ぎないが、人間の生存を物理的に左右する機能であるが故に、万能な支配であるかのように捉えられることがある。

審美主義が政治化された現実に対してもつ無力感の問題は、戦前・戦中の中野重治保田与重郎小林秀雄において現われた。この問題に最も自覚的だったのは中野である。保田は無力感を心情的昂揚によって政治と接合させ、小林は「無力感の原因をなす美的秩序への政治の侵入をあくまで拒否して、政治との間を自ら遮断し、その緊張関係のうちに、永遠の美の世界を構築、確保した」(100)。
戦後、芸術の諸分野で政治主義が横行したのも、こうした無力感によるものである。

一方、サルトルの『聖ジュネ』は美の能動的側面について考察している。
サルトルがジュネの道としてさし示しているのは、「人間」の、つまりは「美」のもつ逆説的な性格を徹底化することによって、「存在」と「善」との正反対のかなたにそれらの逆説的な回復がなされることであった」(104)。

第2節(104-

サルトルは『聖ジュネ』において、神を中心としてそれとの関係において美を考察している。ただし、サルトルによる神の扱い方は美を考察するための機能的なものという側面が強い。
サルトルが『聖ジュネ』で展開した模造品の美学・贋物の美学は奇異に思えるかもしれないが、芸術の本質を模倣に見るアリストテレス以来の西欧美学の伝統に則ったものである。
サルトルにおいて、美の反自然性・作為性は近代産業によってもたらされた存在と自然の対象化との関係において理解されている。
「人間的自我の自立性と能動性が実在界や存在界で行使されるとき、科学や近代産業のかたちをとって存在や自然を対象化するが、同じ人間的自我の自立性と能動性が想像界や非存在の世界にあらわれたのが、「反自然的」、「作為的」なものとしての「美」である。」(105-106)
サルトルの「美」についての考え方は、その領域を現実界、存在界とはっきり遮断することによって、想像界仮象の世界での能動性を保持し、さらには高め、その高められた能動性を全人的に意味を問い、また全人的な能動性へと転化させることにある」(106)。
言い換えれば、サルトルは現代人が直面するパラドックスを一層徹底することで克服し、人間の復権を図ろうとしている。

サルトルにおいて「美」の問題は「現実界、存在界と対立するものとしての想像界仮象の世界にかかわるものであることをとおして、「意識」つまりは主体性の問題となり、さらに「美」を成り立たせる逆説的構造の徹底化は、意識と存在、主体と客体の対立を激化させ、矛盾をいっそうあらわにする」(108)
その矛盾の体現者がジュネとブハーリンである。ジュネは主体方向に超越することで、ブハーリンは客体方向に超越することで矛盾を乗り越えようとした。
サルトルにおいて、美は主体と、政治は客体と結びつけられ、両者は対立的に捉えられている。

サルトルの『聖ジュネ』は「美」の問題を「その固有の領域で徹底して追究することが、基底部の深いところで現実界、存在界を固有の領域とするもの、たとえば、「政治」の問題ともつながりをもつ」ことを示している(109)。
その一方、審美主義においては現実界想像界の峻別はない。

「日本人の美意識」において、美の領域は倫理の領域と融け合っており、想像界現実界も混同している。
この混同は美の問題を「想像-現実」界としての日常生活に容易に見い出せるようになるという利点をもたらす。
but
美が「想像-現実」界に位置するとき、現実界の秩序に属する政治は全体的な視点から捉えられることがなく、秩序は美のみにあり、政治には絶対的に秩序・価値がないものとみなされる。しかも、「想像-現実」界は自己完結的な世界である。
それ故、そうした美意識を保持する限り、現実界の秩序に属する政治が状況を大きく支配するようになったとき、それに対抗する術がない。それどころか、人々は自己完結的な「想像-現実」界に逃避することになりかねない。

小林秀雄の世界も「想像-現実」界である。