読書メモ:中村雄二郎『現代情念論』(1962年)第2編第7章

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今回取り上げる『現代情念論』の第2編第7章「マイナス伝統論」は1960年代の日本思想における主な文明論の欠点を剔出し、それを克服する道を示している。また、ドラマと哲学を結び付けている点に、後年の演劇的知の萌芽が見られることも注目すべきであろう。


今回も、1994年に出た講談社学術文庫版を参照している。

第2編第7章:マイナス伝統論

第1節(132-135頁)

日高六郎による「時代の共通意識・無意識とつながらないところでものを考えられないのに、我々がものを考えることができるかのようにふるまっているのは空しい」という趣旨の警告は正しかったが、この警告自体、時代の共通意識と結びつくことがなかった。
「敗戦は知識人たちによって一般民衆の共通意識との強固なつながりを持ちえなかった「平和への途」とされ、また同時に敗戦は一般民衆の共通意識によってまるで暴風雨でも終わったかのように「敗戦」としてうけとられる、という奇妙な背離の大勢を進行させた」(133-134)

未来像やヴィジョンのような問題が正面切って取り上げられるようになったことは、日本において、敗戦によって解放された科学的思考(社会科学的思考)がその真価を問われる段階に到達したことを意味する。
ここに至り、科学的思考・社会科学は事実の分析と情念やエトスのようなものを正当に結び付け、未来へのヴィジョンを描くことを要求される。

科学的思考・社会科学、さらに言えば思想は日本の伝統との対決を余儀なくされるであろう。

第2節(135-139頁)

日本人の心に響く人間的品位のモデルを作り出せるのは皇室と共産主義者のいずれか。この問題が重要になると中村は考えていたことがあった。
but
そもそも、人間的品位のような審美感は日本の思想や文化の最後の拠点たりうるものなのか。

日本浪漫派の保田与重郎、京都学派の高山岩男、文学界の小林秀雄は戦中思想の主流派に属する。この3人の思想には「対立解消」あるいは「包み込み」の思想という共通点が存する。これこそが日本思想・日本文化の偏角である
高山の思想の根底には無で有を包む西田哲学由来の弁証法的発想がある。

第3節(139-142頁)

対立解消ないしは包み込みの思想は「知識人の側にあっては大勢順応およびその正当化のロジックになるのに対して、体制思想としては知識人のそうした動きを促進する、「平和的(?)武装解除」のロジックになる」(139)
敗戦は無責任の体系への反省を促すだけではなく、包み込みの思想という偏角への対処をも促した。

主として戦前戦中に活躍した小林秀雄和辻哲郎の思想にはマルクス主義や社会科学への対抗という側面があったが、福田恆存(小林の思想的後継者)と竹山道雄(和辻の思想的後継者)の場合はその側面が一層強くなった。
そうなった理由としては、戦前戦中に潜在的だったマルクス主義や社会科学が戦後になって顕在化したためというのも勿論挙げられるが、それだけではない。
福田や竹山は戦争中に小林や和辻以上の「市民性」を身につけており、非自由主義的・非個人主義的なマルクス主義・社会科学主義に対するものとして自らの思想を展開しようとした。
彼らの「市民性」は敗戦前には単なる政治嫌いにとどまっていたが、戦後、知識人による「醜い」転向騒ぎを目の当たりにした結果、非政治的立場から反政治的立場をとるようになった。
2人の反政治的立場は自由主義に依拠するものだが、その自由主義は戦闘的なものではなく、防御的なものである。

第4節(142-147頁)

福田恆存小林秀雄の「美とは事件である」という命題を2つの方向に推し進めた。
・福田は小林の内的ドラマを外在化・立体化し、演劇を文学の中心に据えた
・福田は小林のように美意識で全てを包み込むようなことはせず、美意識を以て政治に、心理主義を以て政治主義に、文学を以て社会科学に抵抗しようとした。
福田はすべてを心理的現実の場に引き付け、平和論者や進歩主義者を批判した。その批判は的確なものが多い。
but
福田によって代表される戦後の反社会科学的知性が、反社会科学者的知性とならざるをえず、社会科学派と反社会科学派の議論がすれちがうばかりで嚙み合わないのをきわめて不幸なことだと思う」(144)
社会科学派と反社会科学派の双方が日本思想の偏角に目を向けない限り、このすれ違いが解消されることはないだろう*1

和辻哲郎において美意識と自由は融合していた。そうなり得たのは和辻における自由が大正期の教養主義的な自由、つまり、洗練された自由だったためである。
和辻の思想的後継者、竹山道雄は「美意識を「文化国家」日本の最後の拠点とし、これを著しくとぎすます一方、外に向かって主張される自由も裏返ったかたちの政治主義」として展開した(145)。

竹山には戦時中からファシズムやナチズムと戦ってきたという誇りがあり、そのために、美に著しく傾斜し、左右の全体主義を執拗に憎んだといえる。
竹山のように左右の全体主義を筆で一刀両断して済むのなら、誰も苦労はしない。

われわれが「無責任の体系」を拒絶し、「対立解消」および「包み込み」ロジックと絶縁しようとするならば、美意識の基底にあって現実と美的にのみかかわる「絶対無」のもつ偏角をなんとかしてたださねばなるまい」(147)

第5節(147-150頁)

福田恆存竹山道雄は日本の文化・伝統をヨーロッパとの結びつきの中でとらえており、「明治以降の近代日本に振子運動のように次々と交代継起した国粋主義と欧化主義の悪循環を、かれらは政治制度、社会生活上では近代主義、美的生活では相対主義に自らを据えることによってたち切ろう」とした(147)。
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日本をアジアやアフリカとの関係でとらえようとしていない。

梅棹忠夫の「文明の生態史観」
梅棹がアフガニスタンで得た実感と文化人類学的な理論によって、近代もまた一つの伝統であることが根拠づけられている。
梅棹が提出した「よりよい暮らし」という価値基準は、加藤秀俊が言う「快適と能率の哲学」と相通じる。両者の理論は明治以降の資本主義化した日本、近代化した日本の延長線上に出てきたものであり、竹山のような美意識派と通じている。
※竹山の新日本史観は梅棹の生態史観を踏まえたものである。
つまり、梅棹の理論と竹山のそれは表と裏の関係にある。

第6節(150-153頁)

堀田善衛はアジア・アフリカから日本を見るという文明論を展開している。
堀田には「土着的なものを即物的に、グロテスクにとらえて、日本的美意識、つまり心理主義的、感情移入的、美的モラリズムから脱出しようとする姿勢がある」(151)。この意味で、堀田の美意識に対する態度は竹山のそれと反対のものだといえる。
堀田は無責任の体系を生み出す日本思想の偏角と戦おうとしているが、最後のところで、日本的無常観を一切を包む絶対無とみなすという失敗をした。
その結果、堀田は「その即物主義的視点を大アジアロマン主義ともいうべきもので浸す一方、国民的エネルギー、民族主義の高揚ということに価値基準の大半がおかれることになり、かつての対ヨーロッパ劣等感にかわる、対アジア・アフリカ劣等感を醸成することになった(153)。

第7節(154-159頁)

アジア・アフリカとヨーロッパの2方向から日本を見直すことが必要であるが、そこでは、小林秀雄福田恆存的な心理主義偏角和辻哲郎竹山道雄的な無の美学の偏角梅棹忠夫的な近代主義の「有効性をこえるもの」の欠如、堀田善衛的な日本的無常観とヨーロッパ的虚無の混同を乗り越える道を示す必要がある。

谷川雁の『原点は存在する』や『転向者宣言』ほど印象に残る本は近年なかった。
アジア・アフリカ→日本←ヨーロッパという平面的な三本立てを自立性と創造性のある思想の内部装置に変換するには、それを動くものと停滞するもの(谷川の言う「前衛」と「負の原点」)の対話としてとらえる必要がある。
谷川の「前衛」と「負の原点」の対置は「論理と感性、意識と下意識、機械と大地、首都と故郷、男と女、知識人と大衆、ヨーロッパとアジアその他無数の分身を生み、それぞれをめぐっての奔放で、強烈なディアレクティクは、ソクラテスのアイロネイアの方法よろしく相手のゆがみを匡正する。いや、激しい否定をぶっつけることで、相手をよろめかせ、よろめきから回復力によって相手自身に自ら匡正させる」(158)
この対話はむしろドラマというべきかもしれない
「工作者の論理」とは「思想の内的ドラマ、自己のうちで対峙し合う二つのロジックが外に向かって開かれたもののことを指す」。そこでは「啓蒙あるいはコミュニケーションが同時に思想活動となり、思想活動が同時に啓蒙あるいはコミュニケーションになるという、本来きわめて当然なことでありながら、永らく見失われていた立体座標が回復される」(159)。

*1:この問題意識は晩年まで保持されるが、社会科学的な知性を主語的、反社会科学的な知性を述語的とみなし、後者を西田哲学に代表させるという視点はまだない