読書メモ:中村雄二郎『パスカルとその時代』(1965年)序章第1節

中村雄二郎の思索全体を貫くモチーフは2つある。1つ目は情念論と制度論の架橋、もう1つは「デカルトからパスカルへ、パスカルからデカルト」へという往還である。今回取り上げる『パスカルとその時代』(1965年)は後者を主題としたものである。中村の著作は平易なものが多いわけだが*1、本書は東京大学に提出した博士論文を原型とした著作であるため、中村の他の著作に比べるとはるかに難解かつ緻密な著作であると言える。

今回参照するのは『中村雄二郎著作集』第2期第9巻に収録されているバージョンである。同巻の解説に「めざしたのは、文献的な、あるいは訓詁学的な研究ではなく、三木清の『パスカルに於ける人間の研究』(1926年)を現代に生き返らせることであった」とあることを思えば(365頁)、三木のパスカル論から最初に読むべきなのかもしれないが、先に入手できた中村のパスカル論から読むことにした次第である。寛容のほどを乞いたい。

序論:思想の歴史的研究について

第1節:問題接近の姿勢と方法(1-14頁)

注1
この本が『デカルトとその時代』ではなく『パスカルとその時代』と題されているのは、17世紀全般(近代全般と言ってもよい)を覆う問題、とくに「近代思想と科学・宗教・政治」に関する諸問題を扱う際、パスカルを中心に据えた方が多角的な考察が可能になると考えたからである。
デカルトが時代の現実からあるていど距離をもって生き、かつ、その思想を形成し、理論化し、展開していったのに対して、パスカルは、時代の現実に、実にさまざまなかたちでコミットした生涯を送ったという相違もある」(11)

パスカルの思想は近代合理主義の典型としてのカルテジアニスムの問題性を鋭く映し出しており、その思想には近代の成立と克服という2つのモーメントがある。
中村は様々な仕事を手掛けてきたが、パスカル研究やデカルト研究から離れたときでさえ、2人の哲学は中村が思索する際の拠点であり続けた。これは当時の日本の哲学界では珍しいことであろう
現代の問題を考える際に、中村はパスカルデカルトの哲学から様々な示唆を得た。また、現代に生きる我々が直面する問題を考察することを通して、デカルトパスカルおよび両名が生きた時代の問題性をより深くとらえることができた。

自分なりの思索を進めるよりどころとして、どの国のどの時代のどの思想を選ぶべきかは一義的に決められない。それは問題が「歴史的な先人の(同時代人の場合もあるが)思想のうちに、われわれがなにを再発見し、そうした思想をわれわれがいかに深く読むか」というところにあるからである(2)。
「偉大な、あるいはすぐれた思想というのは、われわれにそうした再発見を可能にする思想にほかならない」(2-3)

「わたしは、自分の誤解によるかも知れないものであっても、先人あるいは他者の思想がわれわれの思考に与える刺激というものを、きわめて重要視してきたし、いまでも重要視したいと思う。われわれが先人あるいは他者の思想と、最初に、直接的に、また主体的にかかわりをもつのはその場面であるからである」(3)
他者の思想に触れることで得た着想が、その思想の誤解に基づいて得られたものであったことが明らかになったとしても、着想そのものをその思想の理解・解釈と遠ざけることで活用することは可能である(注3)。
他者の思想から刺激を受けるだけではその成果を学ぶに至らない。その成果を学ぶには「相手の思想を、その叙述に即して、理論的もしくは体系的に把握することが、どうしても必要である」が、これだけでも足りない。
その成果を学ぶには、究極のところ、我々が相手の思想と対話することで、その理論や体系の全体ないしは一部分を「自分の思想全体のうちに組みこむかたちで再構成する」必要がある(4)。
※他者の思想の徹底的な客体化を通して、その思想を自己の思想へと主体化していくという発想は中井正一の『美と集団の論理』に触発されたものだが、その考えの適用方法は中井と中村では異なっている(12)。
「われわれにとって、直接的にとらえうる現実は限られたものであるし、文明の発達と社会生活の組織化の進行にともなって、直接的にではなく媒介的にしかとらええないことのもつ重要性が増してきている」(4)

他者の思想を研究する際、それだけを体系的・理論的に理解するに留まることはできない。他者の思想はその時代・社会の価値体系や意味体系の中で意味づけられたものだからである。
他者の思想を客体的に把握し、それを自己の思想へと主体化していくには、思想自体を体系的に理解するだけではなく、思想史的に研究していく必要がある。
※それはHistory of Ideasを研究する場合に限らず、いかなる研究においても必要である。また、概念として明確に提示されているわけではない語に対しても、その語の歴史的・社会的意味を考慮に入れる必要がある(13)。
歴史的なものとして客体的に把握された思想は、無限の豊かさを持った、我々が直面する現実とは別個の現実として現れる。このとき、客体的に把握した思想を自己の思想へと主体化することはどのようにして可能となるのか。
「歴史的なものとして客体的に把握された思想のドラマを追跡することによって、ある歴史的な現実の総体のなかで、その思想家とともに、選択し、決断することをせまられる」(8)

「歴史的なものとしての客体的把握の徹底、つまり対象化の徹底ということ自身、元来が主体のもっとも主体的な働きにほかならないから、自己の思想への主体化の契機は、すでにそこにある」(9)
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そうであるならば、高度に文献学的な研究が必ず「自己の思想への主体化」に至るわけではないのは何故か。
対象化の徹底は事物の分析的把握を容易にし、事物から人間的意味を奪い、高度な操作を可能にする。これは近代自然科学の成立に際して見られたものでもあり、自然的あるいは自然化された事物を把握するには極めて有効である。
しかし、他者の思想は単なる客体ではなく、「自己のうちに、独自の意味体系とそれを統一する主体」を持っている。他者の思想を操作可能な客体物としてのみ把握した場合、その有機的・統一的な意味が失われ、解体されることになる。
客体的把握によって解体された他者の思想を、再度有機的なものへと統一することは、「その思想の独自の意味体系とそれを統一する主体を回復させることであり、それはさらに、われわれにとって、その先人あるいは他者の思想を、自己の思想へと主体化することにつながる」(14)

丸山真男が提示した思想の四次元
①最も高度に抽象化された体系的な理論、学説、教義
②世界についてのイメージである世界観、世界像、人生観
③「具体的な問題に対する具体的な対応」としての意見あるいは態度
④理性的反省以前の生活感情、実感、生活ムード
思想を推進するエネルギーは④から①に向かって、目的設定による方向性は①から④へと向かっていく。
「思想」という語を使用する際には、この4つの次元のどれを意味しているのかを明確にする必要があるが、ある次元にだけ限定することは困難である。しかし、どの次元を重視するのかを指し示すことはできる。
他者の思想を客体的に把握し、それを自己の思想へと主体化することを目標にしているため、中村は本書において②と③の次元を重視しつつ、可能な限り、その考察を①や④の次元にも広げるという立場をとる
従来の哲学史はもっぱら①の次元を扱い、思想を静態的に理解していたといえるが、中村は思想を動態的に理解しようとする。
④の次元の思想を直接考察対象とするとき、恣意的解釈や統一の欠落を招きやすいが、②と③を中心とすることで、それを回避できる。

 

*1:だからと言って内容が薄いということではない。念のために付け加えておく。