読書メモ:柳田謙十郎『実践哲学としての西田哲学』(1939年)第2編第2章

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前回の記事の投稿から少し間が開いてしまった感があるわけだが、とりあえず再開してみたいと思う。今回取り上げる箇所は『無の自覚的限定』に収録されている論文のうち「表現的自己の自己限定」から「私と汝」までを扱った箇所である。柳田は論文「私と汝」を以て西田哲学の中期と後期の境界線とするという独特な理解を示しているわけだが、この理解については次回以降で扱えれば扱うことにしたい。

第2編:無の自覚の倫理

第2章:無の行為的自覚(193-)

「イデヤ的なものは常に事実的なるものに即したものとして之を絶対無の自覚のノエシス的限定の方向に深めたものと考えられるが、かかるイデヤの事実性というも歴史的事実の意味」を持っている(199)。
イデアとは歴史的事実の底において、ノエシス的方向に見られるものである。
自己自信を失うことによってのみ、我々は絶対無の自覚に到達することができる。絶対無の自覚の内容は事実的である。
「自己に於て自己を限定するものが絶対の無なるが故に事実が事実自身を限定すると考えられる」(200)
絶対無の自覚とは絶対に非合理なものを合理化することである。
絶対無の自覚の立場においては、「自己限定的な事実そのものがノエマ的自覚の内容でもあれば又ノエシス的意義に於ての真の自己でもある」(201)。これは絶対無から流れ出て絶対無に流れ去る無限の流れに例えることができる*1

自覚は志向作用の極限において成立するのではなく、自覚によって志向作用が成立するのである。
「直観とか直覚とかいうことは対象的限定の方向に無限に自己自身を限定する対象的なるものが見られなくなると共に、反省的限定の方向に無限に自己自身を限定する自己というものも見られなくなり、「有るもの」が有るがままに自己自身を見るものとなるということである」(205)

「真に自己自身に矛盾するものは存在そのものが矛盾でなければならない。この意味に於て真の自己矛盾的存在とは我々の意志とか行為とかいう如きものでなければならない。行為の世界にあっては肉的なもの感官的なものがそれ自身最深の意味に於て自己矛盾的なもの」である(213-214)。
人格的事実は自己限定的「今」の内容として原始的歴史の事実とも言える。ただし、ここで言う原始的歴史とは歴史の始まりを意味するのではなく、「形成作用的な歴史的世界に於ける根源的事実、即ち一般的限定即個体的限定、個体的限定即一般的限定として行為的即表現的に物が見られてゆくこと、無の一般者の自覚的限定として事実が事実を限定すること」を意味する(216)。
「哲学は思弁的といわれるが哲学は単なる理論的要求から起るものではなく行為的自己が自己自身を見る所から始まる。内的生命の自覚なくして哲学というものはない。此の意味で哲学の真の問題は人生問題にある、行為的自己の矛盾的現実の悩みをはなれて哲学の真の動機は存しない

無の自覚的限定には2つの方向が存する。
直線的限定
ノエマ的限定に沿って弁証法的に自己自身を限定するもの、時間的歴史的に自己自身を限定するもの
円環的限定
ノエシス的限定に沿って弁証法的運動を包み、それを超越するもの
自愛は直線的限定の方向に、他愛は円環的限定の方向に考えられる
「真の他愛とは単に自愛の拡大ではなくて行為的自己が自己自身を失い、無限大の円の中心が中心否定の面によって消され、中心なき円の自己限定として表現の世界という如きものが成立する時、其底に考えられる」(219)。
「真の他愛とは我々の自愛がそれに於てある所の根柢に還ることによって汝を見るということである」
「真の自己の存在は単に理性的なる所にあるのではなくて寧ろ感官的肉的なる所にあり、唯その肉的なるものが同時に己れ自身の底に霊を見る所に存する」(220)。それ故に、自己の存在そのものは矛盾である。
「掴むことの出来ない現在を掴むものは愛である、行為の底には自己自身を愛するものがなければならぬ、行為とは自己自身を愛するものの時に沿うた自己限定に外ならない」(221)

「良心の声に従うということは純なる情意の要求に従うこと、私欲を離れ、考えられた自己を棄てて無にして自己自身を限定するものとなることである。事実が事実自身を限定する立場に立つことである」(222)
知識の世界も理論的良心によって成り立ち、そこには永遠の今の自己限定という意味がある。
西田哲学において、愛や良心は主観的・心理的なものではない*2

無の自覚のノエシス的限定が愛ならば、そのノエマ的限定は時である。
「対象的に自己自身を見ることのできないものが之を対象的に見ようとする時、それは何処迄も到達することの出来ない無限の過程とならなければならない」(223-224)
自覚的限定は無限の過程でありながら、それを超えてそれを内に包むものである。
「愛は分離的統一として独立自由なるものの統一なるが故に、我々は他愛によって自己を否定するのでなく自己を見出し、自愛によって他を否定するのでなく他を見出す」(224)。それ故、絶対無の自覚のノエシス的限定には社会的限定の意義がある。
「我々が無の自覚に於て生きるということは絶対の愛に於て生きるものとして社会的となることであるが、かく社会的となるということは個人的には死に外ならず、而もこの死に於て始めて真の永遠の生が見られる所に真の社会的自己というものがある」(224-225)
社会とは永遠の生命が自己自身を限定するという意味を持ったものである」(225)。

中期の身体論は真に具体的なものとは言えない。身体の表現的性格と行為的性格の矛盾的自己同一的関係もその端緒が示されるだけで、論理的に具体化されているわけではない。

愛の喜びとは自己が自己を否定することによって得られるものであり、そこに欲求の充足による喜びはあってはならない。真の愛は人と人の間にのみ存在する。

「我々が一身を賭して真に決断する時、我々は真の瞬間に触れるのである。かかる瞬間的限定に於て我々は始めて自愛即他愛なる愛の自己限定として当為に直面する」「我々は根本的に非合理なるが故に理性を有し、悪なるが故に良心を深くする」(231)
「我々の欲求的自己は愛の一般者によって限定せらるべくあるのである、罪は悔い改められるべくある」(232)
アガペーは価値創造の原理であり、エロスを基礎付けるものである。決してその逆ではない。

※エロスとアガペーの関係について、柳田は自身の論文「エロスとアガペ」だけではなく木村素衛の「表現愛の構造」を参照するよう指示している。

「真の愛とは単に欲求的に他を自己に従えることでもなく又徒に犠牲的に自己が他に従うことでもなくて、絶対分離的に相対立する人格と人格とが夫々限定するものなきものの自己限定として深きノエシス的結合を有つということでなければならぬ」(238-239)
「人格と人格とは絶対の無を距てて相対するものであるが故に絶対無の死即生としてのみ相結合することができる」(239)

*1:田辺元が西田哲学のこうした側面を発出論として批判したわけだが、柳田はそれを評価していたのだろうか

*2:では何なのか?